教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/18 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「江戸の天才プランナー!平賀源内」

天狗小僧と言われた少年

 今回の主人公は、江戸時代のマルチクリエイターでエレキテルで有名な平賀源内である。

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平賀源内

 源内は1728年に讃岐国志度浦の足軽の家に生まれる。好奇心が強くて利発であり、子供の頃からカラクリなどが好きだったらしい。奇抜な発想で天狗小僧などとも呼ばれていたらしいが、兄が亡くなって後継ぎになったことから儒学だけでなく本草学まで学んだという。22才で父の死で家督を継ぐと、藩の米蔵を管理するお蔵番として高松藩に仕えることになる。本草学に興味のあった藩主の目にとまって重用され、源内は藩の薬草園で薬草栽培の研究に携わる。そして25歳の時に長崎に留学して中国や西洋のあらゆる学問を身につけたという。

 

 

本草学を学ぶために江戸に行き、日本初の物産展を手がける

 もっと本草学を学びたいと考えた源内は、1756年に藩に暇願いを出して江戸に向かう。そして本草学の第一人者である田村藍水に弟子入りする。ちょうど幕府が薬の国産を進めていた頃で、特に朝鮮人参の国産化に力を入れており、それに従事していたのが田村藍水だという。

 そして1年後、薬品会が藍水主催で開催される。日本中の薬の材料を集めて展示する、日本初の物産展だという。そしてこれの発案者が源内だった。各地にある物産を集めて情報交換をしたいという考えだったという。こうして出品数180種で第1回の薬品会が開催される。これは続けて3回行われ、回を追うごとに規模が大きくなり、3回目は源内が主催、そして源内は本草学者として名が知られることになる。

 しかしこの後、源内は高松藩から三人扶持を与えられたのだが、これが奨学金ではなくて再仕官の話であり、再び藩に呼び戻されることになる。そして源内は薬坊主格という地位を与えられて出世はしたのだが多忙を極めることになってしまう。この環境に耐えかねた源内は再び暇願いを提出、藩主は源内が他の藩に仕官しないという条件をつけてこれを許す。

 

 

様々な才能を発揮する源内だが

 自由になって江戸に戻った源内は、1762年に第5回薬品会を開催する。この時の出品数は1300点に及び大成功を収めるのだが、これは源内がコネをフル動員してチラシを配るなどのPRに力を入れたのと、飛脚問屋とタイアップして着払いで展示品を送れるようにしたことによるという。そして源内はそれらの展示物から物類品隲という本草学の本を出版する。この時、源内36才。

 源内は根南志草という戯作本まで発表する。また西洋画を描いたり土用の丑を考案するなど日本初のコピーライターとしての実績も残している。さらには解体新書の挿絵画家を探していた親友の杉田玄白のために、秋田藩の小田野直武を紹介する。かつて秋田に招かれた時に直武の絵に感心した源内は、彼に西洋画の技法を教えたという。直武は遠近法や陰影法をマスターし、後に秋田蘭画と呼ばれる画風を確立したという。その結果として解体新書に直武によるリアルな挿絵が掲載されることになった。

 

 

手がけた事業は失敗、エレキテルで一旗揚げるが・・・

 平賀源内は事業も様々手がけたというが、しかしこれはあまり上手く行っていない。最初は陶磁器を生産すれば輸出で儲けられると考え、源内焼と呼ばれる陶器を作るのだが販路が確保できずに頓挫する。また石綿を使用した燃えない布である火浣布を製造するが、これも繊維が弱すぎるせいで大きな布に出来ずに頓挫。さらには金山開発に乗り出し秩父で掘削するが金脈にたどり着けずに失敗、多額の借金を背負うことになってしまう。

 しかし失敗しても挫けないのがこの男。苦しい生活の中で一山当てたのがエレキテルだという。エレキテルはそもそも西洋の伝記治療用の装置だったそうだが、壊れたエレキテルを入手した源内はそれを6年かけて修理したものである。これの興業は当たったのだが、助手の弥七画が粗悪な複製品を用いた興行を行って失敗ばかりしていたので、源内の評判も下がってとうとう山師扱いされてしまうことになる。源内は弥七を訴えるのだが、その訴えが認められた時には既に源内の評判は地に落ちていたという。

 そんな中、1779年に源内は大事な図面を盗まれたと勘違いして人を殺してしまう事件を起こす。牢獄につながれた源内は一月後に破傷風で息を引き取る。享年52才。最後まで常識破りな最期だったという。

 

 

 以上、いささか時代に早すぎた人というところがある天才・平賀源内の生涯。恐らく彼が現代の世にいたならば、テレビの寵児になったのではという気がする。

 源内は典型的な天才タイプだが、ただ好奇心が強すぎてあれこれ手を出しすぎているので、どうも深みに欠けるという指摘もある。確かにエレキテルにしても彼が発明したわけではなく、彼は修理しただけである。さらに西洋画を描いたと言っても本職の画家のレベルではなく、万事において器用貧乏なところもあったのも事実である。恐らく好奇心が強すぎるがゆえに興味が次々に移っていったんだろうという気もする。

 とにかく封建時代向きの人でなかったのは確かなようである。時代に合っていなかった人物の悲劇とも言える。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・平賀源内は高松藩の足軽の家に生まれるが、子供の頃からカラクリなどに興味があり、天狗小僧とも言われた天才児だった。
・22才で家督を継ぐと高松藩に出仕して、その本草学の知識を買われて薬草園の管理なども行っていた。
・25才で長崎に留学すると、本草学のみならず中国や西洋のあらゆる知識を身につける。
・さらに江戸で本草学を究めたくなった源内は、藩に暇願いを出して江戸に行き、本草学の第一人者だった田村藍水に弟子入りする。そこで源内は日本初の物産展とも言える薬品会を企画する。
・各地の薬草などを集めた薬品会は大成功し、源内も本草学者として名が上がる。そんな時に高松藩から再仕官を命じられることになる。しかし多忙を極める仕事に嫌気のさした源内は、再び暇願いを出し、他の藩に仕官しないことを条件に認められる。
・第5回薬品会を大成功させた源内は、その出展品などを分類した物類品隲という本草学の本を出版する。
・その一方で戯作本を出したり、西洋画を描いたり、土用の丑のコピーを考えたりなどマルチな才能を発揮。さらに親友・杉田玄白のために解体新書の挿絵をかける絵師の仲介まで行っている。
・しかし手がけた事業は失敗、金山開発の失敗で借金を抱え込む。一発逆転はエレキテルだが、これも助手が勝手に粗悪な模造品を作成して興業で失敗を重ねたせいで源内自身の評判が失墜してしまうことになる。
・最後は勘違いから人を殺してしまい、獄中で破傷風で死亡する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ時代の先を行きすぎたところはありますが、あれこれ手をつけては中途半端という典型的な「器用貧乏」タイプでもあります。現代なら結構フワフワと生きた人のような気もしてならない。
・研究者や発明家と言うよりも、プロデューサーが一番合っている人だろうな。

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