自燈明・法燈明の考察

四諦について思うこと

 最近、UFOだ何だの記事を書いていましたが、それ以外にも日々様々な事を考えています。今回は「四諦」という事について書いてみます。

 私は創価学会に長年に亘り活動をしていた事は、このブログの随所に書いてきました。この創価学会は、昭和の終わりまで日蓮正宗とも協調路線で進んできましたので、組織文化として同質なものを、この2つの宗教団体は持っています。
 
 創価学会も日蓮正宗も、ともに仏教の宗教団体を自称していますが、教義としては仏教とは異なる「日蓮仏法」というものを信奉しています。一応、天台宗の教義を用いた内容を教えていますが、その上で求めているものが仏教とは異なり、創価学会に至っては近年、教義の変質も極まっていて、実態としては宗教団体というよりも、選挙宗教組織になっています。
 
 日蓮正宗や創価学会では、尊ぶべき仏は日蓮であり、釈迦は自分達とは無縁の仏です。だから釈迦の教えを学んでも無意味であると教えていて、近年、創価学会では「永遠の指導者」である池田大作氏の教えが全てだと言うようになりました。だから創価学会や日蓮正宗関係で、特に熱心に活動している人ほど仏教の事は意外と無知なんです。
 
 
 今日のブログ記事では、別にそんな事を言いたい訳ではありません。
 
 私達はこの世界の生まれ落ちた瞬間から、簡単に言えば「死ぬ存在」であるという事を、皆さんの中でどれだけの人が理解しているのでしょうか。
 日常生活とは実に些末で且つ多忙に満ちた世界です。また年齢が上がれば上がる程、体感的に時間の経過が速くなりますが、それに比例した形で自分の人生の事について、中々思いを馳せる事がありません。ついつい昨日あった出来事の延長で今日も生きて、明日も無条件に生きている事を信じ、それがこの先もずっと続くだろうと、漠然と信じて生活をしています。
 
 しかし身近な人が亡くなったり、また自分が大きな病を得てしまった時、この「死ぬ存在」という現実に、はたと気付く時があります。自分の人生とはけして無限に、そして当たり前の様にこの先も続くものではないと。そしてそんな時になって、どの様に人生を越して行けば良いのか、真剣に考えたりしますが、実はそのヒントが仏教の中には意外と多くあったりするのです。
 
 かく言う私自身も、五十代半ばにしてこういった事に気付きました。こういう事は創価学会等の宗教団体では教えられもしなかったし、自分自身、知る事もありませんでした。今回はそんな中で「四諦」という事について、少し記事を書いてみたいと思います。
 
◆四諦とは
 この四諦という教えは、パーリ経典(簡単に言えば南伝仏教に伝承された初期経典)で釈迦が初転法輪(初めて説いた教え)で説法した教えだと言います。まああくまでも「ザクッと」した事を言えばです。あまりこの事で細かい事を書いても些末な事になるので、ここでは省略します。
 
 「諦(たい)」というのは、日本では「諦め」「諦観」という事で、どちらかと言うと後ろ向きな言葉として捉えられてしまう向きもありますが、実際には「諦(あきらか)」ともいい、物事を過たず見ていく事を言う言葉なのです。創価学会や日蓮正宗では勤行の時に如来寿量品を読むと「諸善男子。汝等当信解。如来誠諦之語。(諸の善男子、汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし。)」とありますよね。(あ、創価学会では近年、勤行を端折りましたので最近の会員は知らないかも)ここでいう「誠諦之語」とは、「如来があきらかにこれから説く言葉」という意味なのです。
 
 つま四諦とは「四つのあきらかな真理」という意味を持つのです。ではそれは何なのか、まずは個々に説明していきます。
 
①苦諦(くたい)
 これは「迷い生きて行く事が苦であるという真理」を言います。ここで言う苦とは、仏教でいう四苦八苦の事を指しています。
 
 生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦
 
 ここで「生老病死」は説明を割愛しますが、人が生きて行く中で感じる苦悩の根源は、この四つから来ています。それ以外にも「愛別離苦(愛する人と別れなければならない)」「怨憎会苦(憎み合っている人とも会わねばならない)」「求不得苦(欲しいものが手に入らない)」「五陰盛苦(肉体的な事から湧き上がる苦しみ)」があると言います。
 
 要は仏教の観点でいう人生(生きる)というのは、こういった苦しみが常に付きまとう事であり、苦悩を離れた人生などあり得ないという考え方から出発しているのです。
 
②集諦(じったい)
 これは「苦集諦」とも言い、これら苦しみとは欲望が尽きない事から、様々な苦悩を生起させている事を言います。ここでいう欲望とは煩悩から起きると言われており、この煩悩とは人が本来持つ智慧を妨げる働きを指します。この苦しみの原因を仏教ではもう少し掘り下げた十二縁起(十二因縁)というものもありますが、そこは今回は割愛します。
 
 まあ人生とは苦しみとは離れたものではなく、その苦しみとは心の奥底から湧き上がる欲望や執着に依る事を知るべきであるという事ですね。
 
➂滅諦(めったい)
 これは人生の苦しみの根本原因である煩悩(欲望や執着)を滅する事で、理想の境地を得る事が出来るという事を言います。欲望が執着を産み、その執着した心から様々な苦しみが生まれてくる。これは一つの真理です。でもまあ「欲望の無くなった境地」というのは、どういった事なんですかね。「灰身滅智(けしんめっち)」なんて言って、身も心も滅していく事が「理想の境地」なんて言葉を安易に言いますが、ある意味で人間とは欲望により前身する生き物でもあるし、これは人間だけにとどまらず生物全般も欲望を根底にして、様々な生命活動が成り立つわけです。それを「滅する」という事は、すなわち生きる事すら否定しかねない言葉にもなりますし、苦しみを無くすのに生きる事を否定するのか。という事にもなってしまいます。
 
 私はこの滅諦という事は、様々な欲望や執着を否定するのではなく、それらに振り回されてしまう「心」という事を明らかに理解して知る事で、振り回されるという心の動きを無くしていく事(滅する事)だと理解しています。
 
④道諦(どうたい)
 これは苦諦から滅諦に至る為には、八正道(八つの正しい実践徳目)に依らねばならない、という事を言います。要は仏道に入り修行をして、その揺れ動く心を知り、それを律する事に勤めなければ、人生は苦悩につつまれて終わってしまいますよ、という事を真理としている訳ですね。
 
 以上が四諦の概要となります。
 
 創価学会では「煩悩即菩提(迷いは即ち悟りに通じる)」と教えていて、簡単に言えば人の持つ欲望を全面的に肯定し、その欲望を実現する為(これを「功徳」と呼んでいますが、実際には「御利益」ですね)に、宗教団体が「仏道修行」と呼ぶ組織活動に励んで取り組ませたりしています。
 
 要は欲望をテコに、組織活動に邁進をさせているわけです。
 
 でもこんな活動をしていては、煩悩という事の本質も解らなければ、自分の心の本質に対する理解も深まる事はありません。
 
 この四諦を知る事で、仏教の視点とは「この人生とは苦である」という事から始まっているのが解ります。そしてそれが心の中にある「煩悩」という事をしっかりと捉える事から、その苦からの脱却が始まると言います。

 ここでは苦の原因である煩悩を「滅する」と言いますが、それは煩悩を消し去るという事ではなく、その煩悩に揺り動かされる「心の動揺」を消し去る事を「滅する」という事で説いているのではないでしょうか。
 もし煩悩で示される「欲望」を消し去るとした場合、人間の向上心等についても「無色(非物質的)の欲望」であり、それすら否定する事になってしまい、それでは行きつく処、人間の存在自体の否定ともなってしまいますから、それでは人を苦から救済するという方針とも反してしまう事になるでしょう。
 
 では創価学会の様に「煩悩即菩提」と、その煩悩を全面的に肯定して、それを実現する為の煩悩は「テコ」の様なものだとした場合、結果として人は煩悩に飲み込まれてしまいます。
 
 だから人は、こういった事について、しっかりと修行をし自分自身の体験として、煩悩に揺り動かされる「心の動揺」を消し去るという事に務めなければなりませんが、それは何も特定の宗教団体の組織活動に従事する事ではなく、日常生活の中で様々な出来事を経験しながら学び理解する事が出来ると思いますし、必要であればそういった学問や、時には寺院に行って内観(参禅)するでも良い事かもしれません。
 
 要は自分自身の「心」と向き合う時間と暇を作るべきであり、それこそが「道(修行)」なのでは無いでしょうか。
 
 そしてこういった事を、人生の中で理解すべき「真理」だと指し示す言葉が四諦なのかもしれませんね。
 

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