自燈明・法燈明の考察

人生には流れがあるかもしれない

 昨日は日曜日で明日は勤労感謝の日、今日は中日の平日なのですが、自宅で仕事をしています。まあ社員の大半は有給つかって四連休にしているんですが、私はやる事があるので、マイペースで仕事をしようと今日は勤務日としています。

 さて、今回も自分自身の思索録について記事を書いてみます。
 創価学会では年末に「財務」という、会員からの集金活動に力を入れている様ですが、そんな事にどれだけ意味があるんでしょうね。今の私には功徳という御利益信仰も興味が無ければ、創価学会の言う「広宣流布」なんていう事にも興味がありません。

 そもそも日蓮の残した事や仏教の目的も、御利益信仰ではない訳だし、ましてや宿命転換とか人間革命なんていう言葉が創価学会の造語だと理解してしまうと、もうそんな創価学会の言う事に興味が亡くなるというものです。

 本当は創価学会に関係している人にも、こういった事を理解して欲しいものですが、その為にはそれなりに思索が必要だし、なによりも「屹立した自己」を確立しない限り、長く創価学会の中に浸ってしまっている人達には、この現実を素直に受け入れる事が難しい事なので、それは全く期待していません。

 創価学会では「御書全集」を新規に発刊しているそうですが、そんな御書すら自分自身で読む事が出来なければ、そんな思索も出来る訳がありません。信濃町もそれを十分に理解している事から、「新たな会員向けのプロダクト」として御書を発刊して行ける訳です。

 さて、私は功徳信仰や、何者に変革した結果の様な「成仏観」という事も、実は仏教でいう「方便」の一つの様なものだと理解する事が出来たのですが、人生とは個人の理解とは別に、常に様々な苦悩や問題に直面するものであり、私自身も創価学会を離れたからと言って「こんなに幸せになりました」なんて事は、直ぐにありませんでした。

 ここで私の経験を一つ紹介します。これは会社から新規事業の立ち上げを言われ私が取り組み始めた時の事です。皆さんで記憶されている方も居ると思いますが「サブプライムローン問題」の時と新規事業の立ち上げが重なってしまい、この時の私は、日々事業の立ち上げに呻吟していたのです。

 こんな状況の場合、創価学会の「信心」を信じていた頃ならば、「よし!御題目で乗り越える壁だ」なんて考えて、唱題を1時間以上唱え、学会活動に邁進して、池田氏の書籍にある指導を読みながら「この苦難を乗り越えたい!」と必死になっていたと思います。
 しかし実は自分の中で思索を重ねた結果、「そんな事では無い」という理解に成ってしまったのですから、簡単に言えば「この苦しい状況をどう打開すれば良いのか」という疑問を常に感じながら足掻いていました。

 この状況をもし創価学会の活動家や幹部が見ていたのであれば「それ見た事か、それこそが仏罰だ」と言われていたと思います。

 この状況に陥った時、一時期は本当に精神的にも追い詰められ、周囲には相談できる人も居ない状況でもあったので、心療内科への受診も考えた時期もありました。実際には鬱病の一歩手前だったのかもしれませんが、本当に思考が動かなくなり、毎朝、出勤するにもかなりの労力を必要としました。こんな事を家族には言えません。心の中の鬱憤を吐き出す仲間さえ居ない状況の中で、私は精神的にもかなり追い詰められていたと思います。

 この当時、私の中で考えていたのは「闇が深ければ深いほど、暁は近いはずだ」という言葉だけでした。まあこれは人間革命の小説の中にあった、一つの言葉だったんですが、この人生で乗り越えられない苦労はない。どんな苦悩であっても人生の中で解決する事は絶対に出来るんだ。

 それまでの思索により、それだけを信じて生きていました。まあこれも信仰の一つの形態なのかもしれません。ただ如来寿量品の久遠実成の成仏の観点から考えても、絶対にこの苦悩を自分は乗り越える事が出来る。その事だけを必死に信じて日々を過ごしていたのです。

 まあ結果としてその苦悩は半年間続いたのですが、その後、会社的には新規事業を一旦止めて、私自身も他の業務に参画する事とする事で、何とか会社として難局を乗り越える方策を見つける事が出来ました。またその際に、私が以前に仕事で関係していた方の助力得られた事も、この難局を乗り越えられる大きな要因でもあったのです。

 まあこれは代表的な事ですが、それ以降も様々な苦悩がありましたが、その度にとにかく自分がその場にあるという理由を考え、自分を信じぬく事で、ここまで乗り越えてくる事が出来てきたのです。

 こういった実際の生活の上での経験は、結果として私の信仰観にも大きな変化をもたらす事にもなりました。

 先の記事でも書きましたが、やはり人生とはある程度の「予定調和」の部分があるのではないでしょうか。どの様な苦難であっても、大事な事はその状況を耐え抜くだけのメンタリティを持てるかどうか、そしてそのメンタリティを持つための大前提は、やはり「今の自分自身を信じる」という事と共に「その状況にむやみに狼狽えない自分」である事が必要なのかもしれません。

 そしてその自分を支える根本が、本当の意味での「信仰」という事に繋がっていくのではないでしょうか。何も組織活動に必死になるとか、文字曼荼羅に御すがりするという事が「信仰」ではないと私はこの自分自身の一連の経験から実感する事が出来ました。

 人生とは、自分自身を信じて生きて行けば、必要な時に必要な人と巡り合い、より人生の深みを知る経験をする事が出来る。そしてその経験の中で感じる苦難や幸福という様な感情は、自分自身が潰れなければ、いずれは自分自身の人生を飾るものとしていける。

 要は私達の人生とは、やはりある大きな流れの中で生きて行きながら、様々な経験を実体験としてする事が、大きな目的の一つなのではありませんかね。

 以上、ちょっと私自身が人生の中で感じた事を、今回は書かせてもらいました。


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