2021年2月20日土曜日

大気圏核実験に対する放射能観測(6)

6. 気象研究所における放射能研究

 気象研究所では既に1954年4月から落下塵や降水中、海水中の放射性物質の観測を行っていた。気象研究所の三宅泰雄博士は、1954年に国内各地の大学で観測された雨の放射能データを集め、全国的な実態について研究した。また、政府が1954年及び1956年に行った俊鶻丸(しゅんこつまる)によるビキニ海域での放射能調査にも参加した[4]。

 1957年に原子力委員会が「放射能調査計画要綱」を定めると、1958年1月から気象研究所は落下塵、降水、海水中の放射性物質の放射化学分析を開始した。この研究のための試料採取は、科学技術庁の放射能調査研究費による「地表大気の放射能観測」の一環として11か所の気象官署が担当した。気象研究所は各官署で採取された試料の放射化学分析を行い、セシウム137とストロンチウム90等の降下量を測定した[4]。

 セシウム137とストロンチウム90は人体に取り込まれると、セシウムは筋肉に、ストロンチウムは骨に蓄積されて体内での被ばくをもたらすため、その降下量の監視・把握は国民の安全の長期的な影響評価の上で重要だった。これらは、政府の放射能対策のための貴重なデータとなった[4]。これらの測定は、後述するようにチェルノブイリ原発事故の際にも重要なデータとなった。


気象研究所の放射化学分析によるストロンチウム90(90Sr)とセシウム137(137Cs)の経年変化。[5]による。


7. チェルノブイリ原発事故

 1986年4月26日、ソビエト連邦ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所で多量の放射性物質の放出を伴う事故が発生した。この事故は、発電所内で放射線の急性障害による死者26名、発電所から半径30㎞圏内の住民約9万人が避難するという原子力発電所の大事故として当時の社会に大きな衝撃を与えた[5]。

 事故の情報は、日本では4月28日に報道された。政府は5月4日に放射能対策本部を開催し、雨水を直接摂取する場合はろ過して使用することが望ましいことと、葉菜類については念のため洗浄することが望ましいことなどを国民に発表した[5]。4月30日には放射能対策本部幹事会が開かれ、都道府県と関係機関の観測強化が決定された。気象庁では、4月30日09時から降水放射能、浮遊塵放射能、モニタリングポストの臨時観測を開始した[4]。

 当初は、事故によって放射性物質が地上で放出されたため、遠くまでは輸送されないという予想もあった。しかし、4日に米子と東京の降水放射能及び大阪と東京の浮遊塵放射能に高い値が観測された。10日頃までに各観測官署で平常値を超える放射能が観測され、特に5月8日に秋田での降水放射能の観測値は平常値の約40倍となった。その後は降水放射能、浮遊塵放射能とも値は低下した[4]。

 降水・落下塵放射能観測の実施官署は、5月の試料の採取を毎月から毎週に変更した。気象研究所による5月第1週の試料の化学分析によって、本州中部に多量の放射性物質が降下し、その放射性物質の主な成分はヨウ素131であったことが明らかになった[4]。また、原子炉特有の放射性化学生成物セシウム134が観測されたことは、この放射能が原子炉事故によるものであることを示した[5]。放射能対策本部は、6月6日に日本に降下した放射性物質の量は健康へ影響しないことを公表し、放射能観測体制の強化は終了した[4]。

8. 国際協力

 1950年代の核実験からの放射性物質による汚染の広がりは国際的な問題となり、1955年12月に国際連合は、放射線影響科学委員会(UNSCEAR)を設置した。日本はUNSCEARへの参加を要請され、1956年10月の第2回委員会において、気象庁からの出席者は気象庁の放射能観測の結果を発表した[4]。その後も、第7回(1960年)、第11回(1962年)、第12回(1963年)の委員会に気象庁から関係者が出席した。

 1961年10月の国際連合総会では世界気象機関(WMO)に対して、大気放射能の測定法の標準化、放射能データの国際交換、資料の刊行を早急に開始するよう勧告した(国連決議第1629(XVI))。1962年11月の国際連合総会でもWMOの大気放射能観測と通報計画の早期実施が決議された[4]。

 1957年に始まった国際地球観測年(IGY)(本の11-5-2「IGYと南極観測」を参照)では、その観測対象に放射性物質を加える事が決定された。IGYの期間中には国際間で放射能観測資料を交換することによって、放射性物質をトレーサーとした気象解析を行うことにも重点が置かれた。同年2月東京において気象庁主催で開かれたIGY西太平洋地域会議放射能分析会において、地域の放射能データセンターの設置が決議された。データセンターの業務は、世界各国で得られた大気海水の放射能測定データを1か所に集め、気象解析のためにデータの国際的な利用を促進しようというものあった。同年8月第2回IGY放射能勧告委員会において、日本にデータセンター(WDC C2 for Nuclear Radiation)を置くことが決定され、1958年4月から気象庁観測部においてその業務が開始された[4]。なお、WDCはIGY終了後も存続することとなった。

9. 気象庁における放射能観測の終了

 大気中核実験の終息後、大気放射能観測の対象は原子力施設が主となった。原子力災害対策では、放射性ヨウ素等の監視が必要であるため、放射性核種分析が重要となった。2005年2月に気象庁は、気象研究所とともに降水放射能の観測官署に新たに降水の核種分析の導入を含めて新しい放射能観測体制を検討した。

 2005年に政府によって放射能の効率的な観測体制のあり方が検討された。その結果、環境省や都道府県等の観測体制が十分に整備されていることから、放射能観測についてはそれらの機関で行うこととし、気象庁の放射能観測は廃止されることが決まった。それを受けて、気象庁の放射能観測業務は、2006年3月31日で終了した[4]。

 各官署の観測結果、気象研究所の放射化学分析の結果及び微気圧観測の結果は、1955年から「大気放射能観測成績」として刊行され公表された。大気放射能観測成績は第1号から51号(1968年)までは年4回、1970年からは年1回刊行された。その後、1993年からは「放射能観測成績」、2003年からは「放射能観測報告」と名称が変わった。放射能観測報告は、観測の終了に伴い2007年に最後の№89号が発行された[4]。

(このシリーズ終わり)

東日本大震災による福島原発の事故による放射能量を知りたい方も多いと思われる。興味のある方は以下のウェブサイトである程度はわかるのではないかと思う。

公益財団法人日本分析センター
https://www.kankyo-hoshano.go.jp/01/0101flash/01010211.html

北海道立衛生研究所
http://www.iph.pref.hokkaido.jp/eiken_housyanou/fallout_link.htm

日本分析センター、平成 25 年度  放射線監視結果収集調査委託業務成果報告書
https://www.nsr.go.jp/data/000165510.pdf


参考文献(このシリーズ共通)

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake(1954)The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August、 1954、 Papers in Meteorology and Geophysics、 5、 173-177.
[3] 気象庁(1975)放射能観測業務回顧、気象百年史 資料編、267-272.
[4] 地球環境・海洋部環境気象管理官(2006)放射能観測50年史、測候時報、73、6、気象庁、117-154.
[5] 気象研究所(2007)Artificial Radionuclides in the Environment 2007、 ISSN 1348-9739.
[6] 原子力委員会(1986)ソ連チェルノブイル原子力発電所事故と我が国の対応.原子力白書.(http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1986/index.htm)


0 件のコメント:

コメントを投稿