2021年4月12日月曜日

南方振動の発見者ギルバート・ウォーカー(2)

2. 生まれてからケンブリッジ大学まで

ギルバート・ウォーカーはロンドン南部のクロイドンで1868年6月14日に、4人目の子供の長男として生まれた。父の父トーマスは技術者だった。彼は1876年に地元の小学校(Whitgift Grammar School of Croydon)へ入ったが、そこで、数学と力学に興味を示した。彼は13才でケジントンにあるセント・ポールズ学校(St Paul's School)の奨学金を得て、そこで教育者として有名なフレデリック・ウィリアム・ウォーカー校長の下で学業生活を送った。彼自身の言によれば、最初古典を習っていたが大失敗をやらかして数学に送られたとなっている [1]。在学中にギルバートの力学への興味は増し、1885年には彼が自ら作ったジャイロスコープで賞をもらった [2]。

1885年12月にウォーカーはケンブリッジのトリニティ・カレッジの数学の奨学金を得て、翌年10月にそこへ入学した。在学中に彼はいくつか大学の賞を獲得した。その中には後に王室天文官(グリニッジ天文台長)になったF.W. ダイソンと共有したSheepshanks Astronomical Exhibition賞もあった。彼は1889年にトリニティ・カレッジ数学課程卒業試験(Mathematical Tripos)パートIのシニア・ラングラー(数学科首席)に輝いた [1]。ちなみに彼の友人ダイソンは次席だった。1889~90年に彼は応用数学を研究して、数学課程パートIIをやはり首席で卒業した。1891年に彼とダイソンは、トリニティの研究員(Fellows of Trinity)に選ばれた [1]。

ケンブリッジ大学(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:KingsCollegeChapel.jpg)

しかし、この学業の無理がたたってウォーカーは健康を損ない、療養のためスイスで3年間を過ごすはめとなった。スイスでの療養は彼にとって貴重な期間となった。この時期は彼にとって思考に没頭するための時間を与えただけでなく、登山やスケートをする機会を提供した。特にスケートは彼の生涯での趣味の1つになった。1895年には健康を回復し、彼はトリニティ・カレッジの講師になった。これは彼が1903年にインドに行くまで続いた [1]。

つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] Taylor I. G., 1962: Gilbert Thomas Walker. 1868-1958.The Royal Society, Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society, 8, p166-174.
[2] Walker M. J., 1997: Pen Portrait of Sir Gilbert Walker, CSI, MA, SCD, FRS. 7, Royal Meteorological Society, Weather, 52, p217-220.

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