2023年5月30日火曜日

地球化学の先駆的女性科学者 猿橋勝子(5)

 8    酸性雨の研究

中央気象台では、三宅らが1935年から降水中のpHやイオンを分析して、酸性雨の研究を行っていた。戦後の復興が本格的になると、工場や排気ガスからのさまざまな化学物質が増加して、降水中に溶け込んだ。酸性雨というとまずpHの減少を思い浮かべるかもしれない。しかし、降水中にはさまざまな陽や陰のイオンが溶解しており、酸性雨の問題はpHだけの問題ではなく、溶け込んでいる様々なイオン全体を見なければならない。時代とともに大気環境は変わるので、長期継続した分析が重要となる。

雨粒への興味から科学に目覚めた猿橋は、1970年代から1980年代にかけて持ち前の分析技術を用いて、酸性雨の分析にも取り組んだ。1978年に、猿橋らによる気象研究所での降水のイオン分析結果が報告されている。それによると、東京では硫酸イオンや硝酸イオンは戦後すぐに比べて10倍近くまで増加している [7]。

ただその後、環境庁の発足とともに酸性雨の研究の主流はそちらへ移っていたようである。現在では環境省が主導して、東南アジアではEANETという観測網で、国内では「そらまめくん」という観測網で、各地で降水や大気汚染、大気中の塵の自動分析を行っている。
 

9    大気・海洋間の二酸化炭素の交換

二酸化炭素による地球温暖化の問題が持ち上がってくると、人為的に放出された温室効果ガスの炭素の動向に注目が集まった。放出された二酸化炭素などは、そのまま全てが大気中に蓄積するわけではない。人為的に放出された二酸化他炭素量は、石炭や石油の掘削・消費量からある程度推測できるが、実際に観測されている大気中の増加量はその半分程度である。この大気中に放出された炭素が、海洋と陸域のどこに行って、場合によってはどれだけ大気に戻ってくるのかという流れは、炭素循環と呼ばれる。

この全球規模の炭素循環の中でまず推測されたのは、大気中に放出された二酸化炭素の大部分は海洋に溶け込んでいるのではないかということだった。しかし、海洋の吸収量を全球規模で定量化するのは容易なことではない。この問題に本格的に取り組んだのは、アメリカのスクリプス海洋研究所のロジャー・レベルとハンス・スースだった。

放射性同位元素14Cの存在比(12Cに対する比率)は、大気中では宇宙線による生成と自然崩壊がバランスしているため一定となる。ところが、当時は大気中の核実験のため、それによる14Cが急増していた。一方それが海水中に入った後は、大気からの供給が絶たれて自然崩壊だけとなり、徐々に14Cの存在比が減少する。彼らはこの特性を利用して、大気と海洋間の炭素の交換速度を推定した。1957年に彼らは、それまで考えられていたよりも海洋による二酸化炭素の吸収量が少ないことを発見した [8]。

このような背景で炭素循環における海洋中の二酸化炭素の関心が高まり、1960年頃から海水中の二酸化炭素分圧を直接測定することが始まった。これがわかれば大気と海洋間の炭素の交換速度を直接的に推定できる。

気象庁では1968年から137°Eに沿った西太平洋で、観測船を用いた海水中の二酸化炭素分圧の測定を開始し、それに猿橋を含む気象研究所も参加した。猿橋らは、さらに太平洋、インド洋、南極海などでも測定を行い、またそれが深さとともにどう変わるかを調べて、それから太平洋全域での大気と海洋間の炭素の交換速度を気象要素などを用いて推定した [9]。

気象庁での50年以上にわたる同じ経度での継続的な観測による海洋の二酸化炭素分圧の変動結果は、IPCCなどにも引用されて世界的に見ても類がないものとなっている。また、その後国立極地研究所や国立環境研究所も商船を用いて各海域で観測を開始し、それらは現在では地球環境の変化を知るための貴重な資料となっている [10]。

        気象庁の観測線による137°Eの観測線(気象庁提供)

つづく

参照文献

[1]     米沢富美子, 猿橋勝子という生き方, 岩波書店, 2009.
[2]     関口理郎, 成層圏オゾンが生物を守る, 成山堂書店, 2001.
[3]     三宅泰雄、猿橋勝子, "大気オゾンの年変化と子午線分布に関する理論," Journal of Meteorological Society of Japan, 第29巻, pp. 347-360, 1951.
[4]     Butchart, "The Brewer-Dobson circulation," Rev. Geophys., 第52巻, pp. 57-184, 2014.
[5]     Saruhashi, "On the Equilibrium Concentration Ratio of Carbonic Acid Substances Dissolved in Natural Water - A Study on the Metabolism in Natural Waters (II)," Papers in Meteorology and Geophysics, 第6巻, pp. 38-55, 1955.
[6]     Saruhashi and Folsom, "A Comparison of Analytical Techniques Used for Determination of Fallout Cesium in Sea Water for Oceanographic Purpose," Journal of Radiation Research, 第4巻, pp. 39-53, 1963.
[7]     猿橋勝子、金沢照子, "降水のpH," 天気, 第25巻, pp. 784-786, 1978.
[8]     Reveller and Suass, "Carbon dioxide exchange between atmosphere and ocean and the question of an increase of atmospheric CO, during the past decades," Tellus, 第9巻, pp. 18-27, 1957.
[9]     猿橋勝子、杉村行勇, "大気・海洋間の二酸化炭素の交換," 天気, 第25巻, pp. 786-790, 1978.
[10]     吉川久幸, "温室効果ガス ―炭素循環研究に着目して―," 天気, 第54巻, pp. 765-768, 2007.

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