中世から









ジヤニーさんのことは、腐女子にはわかりきつた、よく聞く事件でしかありませんでした。

中世は封建時代です。封建時代とは主君と家臣のBLの關係で組織が治められる時代のことです。徳川の時代になつて藩ができるとすぐ、藩夫々が小姓に手を出す等のBLを禁じ、亦改革毎に男娼や歌舞伎の規制も厳しくなつていつたのですが、此処に、近世が中世から分けられる所以が有ります。
然し明治になると、幕府の目を逃れてBLを色濃く残して居た薩摩藩の人々が、東京へ流入し、BLの流行は明治、大正を横断して戦時中迄續きます。ジヤニー喜多川もまた、BLを受け継ぐ日本軍の兵士として出兵して居たので、少年達に中世の振る舞いを要求した、と云う脈絡があるのでしよう。

目上の人物よりも科學とお金を信じるようになつたとき、近代になつた、と単純化できますが、實際の明治時代においては、法體制や産業、経済の近代化を興したのが封建主義の薩摩出身者だということで、単純化は難しくなります。〈明治維新=近代化〉は確かに常識である一方、ある側面では國民は中世へ引き戻されて居ます。

文系の研究に意義があるのは、全ての時代の性質が現在にも並行して存在するからです。
というのも、科學とお金もまた父権的な神だからです。他に資本主義、民主主義、効率、安全、健康等が中世の神に成り代わつて新しい宗教となりました。多くの『イマジン』が好きなだけの自称無神論者も、神に成り代わろうとしてこれに陥ります。
無神論者含め、わたくしたちは生まれた時から神を信じていて、近代かと思つて掴んだ鍵は、その手に入つた途端に中世のものとして捉えるしかないのでしようか。

いまの腐女子の文化は、受けが家事と職務に追われているという様な設定の、父権的異性愛の延長に過ぎないものかも知れません。實のところ、腐女子はゲイが苦手なのです。こうした父権社會から脱することは、ゲイの偏見から脱するということでもあるので、ゲイを「腐つている」とする様なこれ迄のあり方を卒業しても、腐女子の創作は其處で終わりではありません。