過干渉型毒親家庭で育つということ

スパルタ教育型・過干渉型毒親の支配下から逃れ、自由を手に入れるまで。

母の死を願う小学生

涙の匂い

 

ピアノも公文も塾もすごくすごく頑張っているのに、いつも厳しくて、暖かい会話がなく、テレビはほどんど見せてもらえず、小学校6年まではお小遣いもなく(小6から月1000円だけ小遣いがあったけど、これもちょっとしたことで怒られてすぐ小遣い停止になったりする)、欲しいものも買ってもらえなかった子供の頃。毒母に平手打ちされることも時々あった。元ピアノ講師の母に、ピアノでちょっと間違えただけでひどく罵倒されて怒られて、私はしょっちゅう泣いていた。おかげでピアノが大嫌いだった。

泣きすぎて涙の塩分で顔がカピカピになることがよくあった。そういう時は、「涙の匂い」がする。海の潮の匂いに少し似ているけど、もっと癖のない感じの匂いだ。

「涙の匂い」ってあるよね?って友達に尋ねてみたことがあって、涙に匂いなんてないよ?と言われた時、涙の匂いを感じるほど泣いたことがないんだなぁ、うちとは違うんだなぁ、いいなぁ、と思った。

「お母さん好き?優しい?」って学校の友達にきいてみては、「うん、優しいよ」「お母さんのこと、好きだよ」と答える友達のことが羨ましくって仕方なかった。

毒母はとても「いつも厳しくて怖い」ので「嫌い」だった。

弟を幼稚園やら塾やらに迎えにいく道中に車で事故って毒母が死んでくれたらいいのになぁ…としょっちゅう思っていた。

そしたらおばあちゃんに引き取られるのかな?おばあちゃん優しいからおばあちゃんと住むのがいいな。

祖母は関東に住んでいたので、一年に1~2回しか会えなかったけれど、明るい楽しい性格で、お喋りするのも楽しくって、いつも会うのが楽しみだった。

私が祖母からの電話の受話器を取った時は、祖母と1~2分話したところで母にすぐ変わるように言われたので(毒母は早く祖母と会話したくてたまらなかった)、祖母と電話で話す機会はあまりなかったのが今でも少し残念だ。

毒親は連鎖する…などとよく言われているが、祖母は毒親では無かったので何故あの祖母から何故毒母が産まれたのかは謎だ。

家庭内は毒母の独壇場

 

毒母は祖母(彼女にとっては母)と話すのが大好きだったようで、祖母から電話があると、長時間話し込んでいたのを覚えている。怒られている途中に祖母からの電話があると、ホッとしたものだった。

毒母はきっと自分の話をきいてもらいたくってたまらなかったのだろう。今でも、会話する時は95~99%位母がしゃべっている。子供時代にはその異常さに気づいていなかったが、家庭内での会話のキャッチボールが成り立っていないせいで、小~高時代の私のコミュニケーション能力はとても低く、毒親に育てられたが故の自己肯定感の低さも相まって、とても無口な子どもだった。頭の中では考えていること・言ってみたいことは沢山あったのだけれど。

父親も無口だけれど、元々口下手なほうなので、毒母が沢山喋り続けている合間にたまーに相槌をうったり、短いコメントをするくらいで、不満は無いようだ。

今や10年以上、物理的にもかなりの距離があるので近年ではごくまれにしか毒母と話す機会が無いが、普段は周囲の人との会話のキャッチボールが成立しているせいで、たまに毒母と話すと会話のキャッチボールの成り立たなさにびっくりする。

あくまでも例だけれど、「最近xxという事があって、△△だなぁ…って思ったんだよね~…」といったとすると、毒母が「そうそう、そういうことってあるわよ、私なんてこないだ□□ということがあって…」といつのまにか彼女自身の話、彼女がネットかTVか人づてに知った話、それらについての自論を展開しはじめてしまい、「私に最近xxという事があって、それについて私が△△だなぁ…って思ったこと」には一切のコメントが無いのだ…。どんな話題であっても一事が万事そう。

毒母は、どんなテーマでも必ず自分の話へ持っていく人なのだ。だから毒母には親しい友達がいないのだろう。

私の物事への感じ方・思考・嗜好・考えなどには興味が無い。毒母以外のあらゆる大人との会話で感じる、「話がふくらんでいく」、「発展していく」、そういった会話の楽しさ・面白味というものが毒母との会話には一切無い。

そもそも子どもの感じ方・思考・嗜好・考えなどに少しでも思いを寄せることができれば、毒親になるはずがなく、これが毒母の毒母たる所以なのだろう。

「自分が話したい」「子どもを思い通りにしたい」…そんな毒母からは、私の気持ちに寄り添ってもらえたことなんて、全然なかった。これも機能不全家族の一例なのかもしれない。