久々の投稿になります。

 

再発によるニドランの抗がん剤治療も順調に進み、予定の8回中5回が終了しました。

 

毎回、順調に副作用は出ていて、4日ほどほとんど食事はとれない日々が続きますが、

 

4回目の点滴後のMRIでは、先生からかなり小さくなっているというお話もあり、

 

副作用も乗り越えることもできてます。

 

そのMRI画像がこちら↓

 

 

 

で、今回は、僕の原点といってもいい、

 

悪性脳腫瘍の摘出手術体験から丸9年ということで、

 

ちゃんと、自分自身が忘れないよう振り返っておこうと思います。

 

以下、術後6か月後の2013年4月中旬に記した体験記です。

 

長文なので、時間のある方、覚醒下手術に興味のある方、脳腫瘍手術に興味のある方だけお読みください。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

覚醒下による悪性脳腫瘍手術体験記(2012.10.15)

 

2012年10月15日、僕にとって一生忘れられない1日になるだろう。

 

もうすでに、あれから6か月が過ぎようとしています。

何故かというと、ずっとあの記憶を文章にまとめようとすると何故か筆が止まるというか怖さが蘇り、どうしてもまえにすすまなかったのである。

口では、軽く話せても、いざ文章にしようとすると、何故か苦しくなる、それで毎回断念してきた。

でも、もうあれから、さすがに6か月。

 

そろそろ、まとまておかないと、記憶も薄れがちになり、文章にするのは不可能となるため、思い切って文章にしてみた。

長文でしかも、もともと作文能力のない人間なので、まとまりがないので、時間のあるときにひまつぶしにお読みください。

 

その日、朝、緊張感からか起床予定の6時よりも前に目が覚めた。

前日の夜、『最後の晩餐』ということで近所のうなぎ屋を探して、外出許可をとって家族や友人と食べに行ってゆっくりしたため、意外にぐっすり眠れた。

松本での主治医(この脳腫瘍の第一発見者)である高校の同級生からは、「術前の夜はなかなか眠れない患者さんが多いから、もし眠れなければ我慢せず、睡眠導入剤をもらうように」と言われていたが、全くそんな心配はなく、消灯からほどなくして10時過ぎにはいつの間にか眠っていた。

 

さて、手術日の朝は、もちろん朝食はヌキ。

このため、しばらくひげそりも、歯も顔も洗えないだろうからと、いつもより入念に。

その後術着に着替え、8時過ぎには、家族や親兄弟親戚が続々と詰めかけてきてくれた。

 

ナースステーション横のデールームで、全く緊張感のない時間を過ごす。

そして、予定の9時ちょっと前に、ナースの「さあ、そろそろ」という言葉で、一応緊張がはしり、ただ、この時も、手術室には自ら歩いて向かうため、私とナースと家族大勢の団体さんで歩いてのエレベーター移動。

手術室の入口までいくと、自ら名前を言って受付をするため、とても事務的。

ただこの入口、手術室がたくさん網の目のように並んでいる部分の入口のため、本当の受付という感じ。

家族とはここでお別れ。

みんなに軽く会釈し、「ありがとう」「がんばってきます」を言って、そして、写真撮影。

そしてこの時、絶対しようとこころに決めていた、笑顔で「ピースサイン」をみんなに向けていました。

 

 

この「笑顔でピース」は、大好きな槇原敬之の「夜空にピース」という曲に、『どんなときでも心配してくれる誰かにせめてありがとうとピースできるようになりたい』という歌詞があって、ここでやらずにいつやると思ってやりました。ちょっと場違いかもしれませんが…。

 

歌詞全文は、こちらで…

http://www.kasi-time.com/item-48735.html

 

さて、いよいよ手術室入室。と思いきや。その前にさらに今度は奥の本当の手術室の前の廊下に座り、担当看護師から最終的ないくつかの質問。名前やアレルギーなどなど、あと、術中に聞くため自ら持ち込んだCDの確認まで、入念に。

 

そして、準備が整ったということで手術室へ。

この東京女子医科大学病院の手術室はインテリジェント手術室と呼ばれ、手術中に同室内でMRIがとれる機能やナビゲーション機能で術中刻々と変わる情報整理しながらすすめる最先端の手術室です。

でもそのわりに、入った感じは、狭くて、こじんまりした感じ。なるべくまわりを見回すつもりでいましたが、やっぱり緊張していたせいか、ほとんど記憶がありません。

 

そして、看護師さんに。ちょっと高めの術台に、仰向けに横になるように言われ、とうとうこれで「もう逃げられないんだ。」と思った記憶があります。

ということは、それまで、心のどこかで少しだけ逃げようと思ってたってことなのかな?

 

術台は、意外にクッションもよく硬いわけではなく、まぁ、ダブルサイズというわけにはいかないので、寝返りはかく必要ないので、ほぼきおつけ状態で寝る感じでした。

この後、看護師さんたちが周りで、4~5人の看護師さんがめちゃくちゃ忙しそうに準備をはじめました。

僕の腫瘍は、右前頭葉のため、多分この辺切られんだろうなぁっていう予想はありましたが、実は、予想していた事前の剃刀というのは全くなかったため、手術後、目が覚めてみないとどんな状態になるかわからないものでした。

髪の毛も全然短くしていませんでしたし、本当にどこの手術するの?って感じでした。

そして、9時過ぎ手術が始まりました。

麻酔が投与され、いつの間にか眠っていました…

 

ZZZZZZZZZZ

ZZZZZZZZZ

ZZZZZ

ZZZZ

 

 

(普通の手術だったら、ここで目覚めて、「すべて終わりICUのベッドの上で苦しんでいました」で始まるんでしょうか)

僕の場合は、違います。

僕の場合、覚醒下手術でした。

 

 

つまり、頭蓋骨をはずし、脳を空気にさらしたまま、起こされるいう、普通考えたら耐えられないことを経験しました。

 

午前9時に麻酔で眠り、次に、時間として具体的に僕の記憶のあるのは午後1時30分です。

 

何故かというと、実際に、先生に今何時ですか?って聞いた記憶があるからです。

 

それ以外も何度も聞いていたようですが、しっかり記憶がある一番早い時間はこの時間です。

でも、あとで先生に聞いてみたところ、実際には、もう少しまえにはすでに起こされて会話もしていたようです。

 

手術の本番は、まさにこれからです。

 

この麻酔のかかっている間におそらく、いろんな管や注射をし、切開する部分だけ剃毛し、切開。頭蓋骨を外して、硬膜をきり腫瘍のマッピングを行い、MRIの1回目を撮影しなどなどを行っていたんでしょうか?

 

そして僕が起こされて、まず、最初に確認されたのは、BGMで自ら用意したサザン桑田のCDの音量。

 

確か、小さいのでもう少し大きくしてと頼んだ記憶があります。

 

そして、その後、看護師さんから、暑くないか?のどが渇いてないか?どこか痛いとかはないか?不快はないか?などの確認ありました。

もちろん、全身麻酔ではなくても、局部麻酔なので、水は飲めません。のどが渇くと、水で湿らしたガーゼにを多少苦に含ませる程度。それでもうれしい。

 

熱いと言えば、一生懸命、看護師さんがミニ扇風機やうちわで、カーテンようなのカバーで仕切られた顔の周りや体を仕切られた部分を仰いでくれる。術着も脱がしたり、着させたり…。何でもワガママに対応してくれ、ホント天使のようでした。

 

この対応は、手術が終わるまで続きました。

 

今回の手術は覚醒下手術。

 

覚醒下のねらいは、簡単に言うと、運動野(体の各部署を動かす神経)付近にある腫瘍を、話をしたりその運動機能実際動かしながら、確認しながら、腫瘍を取り除くことにより、より合併症・後遺症を少なくしようとするする手術。また術中MRIやマッピングを併用して、キケンの多い脳開頭手術を安全に行うというもの。

 

そこで、何とか僕がパニックならないよう気を配ってくれていたんでしょう。

パニックをおこすことにより覚醒下手術が継続不可能になることが一番問題らいしいです。

 

そういえば、前日の手術説明の際、執刀医から、この覚醒下手術で一番心配なのは、患者さんがパニックを起こしてしまうこと。

 

そして一番パニックを起こしやすいのが、30歳~40歳代の男性、まさしく僕のことです。

 

女性は、妊娠や生理で不条理な痛みや出血になれているが、男性特にこの年代の一番男が一番逆切れしやすく、我慢できずパニックを起こすらしいのです。

だから、看護師さんたちが、とーっても気を使ってくれてくれているのがよーくわかります。

ましてや、僕はちょっと、閉所恐怖症気味。

 

そして、具体的な作業に入ります。執刀医の先生に返事しながらです、

 

記憶にあるのは、目の前の小さなのスマホぐらいのスクリーンに映る絵にこたえる作業。たとえば、鉛筆、カバ、自動車などの絵が出てきて、それをこたえるというもの。

 

この後、一通り、映像を見た後、この後は、しばらく、先生たちと、世間ばなしを。

 

趣味だとか、好きな映画とか、大学時代何してたとか…。他愛のない話を。

 

この世間話は顔面の神経を確認する意味もあって、最後まで続きました。

おそらく、事前に言語野が腫瘍とは関係ないことはわかっていましたが、会話しながらいろいろなことを検査しながら腫瘍を切除していたのでしょう。

その間、音楽は、もちろん入院前に行った桑田のアルバム。苦しいときは時には口ずさみながら…。

勇気づけられながら。

本当に、頭の切開した皮膚部分と頭蓋骨の内側の硬膜部分の局部麻酔のため、それ以外の感覚はほぼ100%ある状態。

 

もちろん、なんとなく全身麻薬にやられてボォーとした感じではありますが、執刀医が頭のほかの部分に触れればわかるし、少しずつ(おそらくミリ単位で)切除している腫瘍を吸う器具が頭にかかっている感覚やその音(歯医者で使うバキューム音のような…)が常に感じられている感覚は不思議なものでした。

 

その後、問題の運動野近辺に近づいてきたようで、左手をグーパーグーパー繰り返すように言われました。

これも、術前の説明で、左手の麻痺はかなりの確率で覚悟するように言われていました。

 

というか、「まだ若いのだから、これから10年、20年単位で生き続けるためには、今回腫瘍を全部取り切りたい。そのためには、僕の場合、左手の完全麻痺は避けられないという覚悟で臨んでほしい。」

 

「そして、術中、もしかすると、動いていた左手が、急に、パタッと動かなくなるかも知れないけど、そこで落ち込まないでほしい」とも言われていました。

で、この左手のグーパーグーパーは、結局手術が終わるまで続くのです。

 

動かなくなるはずの左手が、ずーっと、ずっと動き続ける、このことが僕のモチベーションを保ち続けてくれたのです。

結局、次に時間を聞いたのは、午後5時30分。少なくとも約3~4時間は手を動かしながら、先生と話しながら、脳をさらけ出しながら、腫瘍をとってもらっていたのです。

時々、「オジャマン」という呼び名で流される電気信号により、左手と左顔面に電気ショックを流され、おそらく脳の機能チェックを行い、本当に慎重にすすめてくれました。

 

この「オジャマン」という名前が、何故か術中、笑えた記憶があります。

 

前日の説明では、僕の腫瘍は小さいから覚醒下の状態は、2時間もないと聞いていたので、かなりオーバーしてるなぁとおもってました。

まぁ、それでも、左手は動いているし、しゃべれているし、自分でもまだまだ頑張れそうな気がしていました。

そうしているうちに、なんとなく周りの状況が手術終了かな?って雰囲気になりました。

目の前に作ってくれていた空間はなくなり、直接ナイロンのシートが顔にかぶさり、ちょっと息苦しいなぁと思いましたが、あと少しだろうから、頑張ろうと思いました。

 

しかし、そのあと、そのまま、術中MRIに移動。

まぁ、移動と言っても、横にそのまま数メートルずれただけですが、その間おそらく、15分程度だと思うんですが、その時間が長く感じられたこと。

 

最初に言った閉所恐怖症がここまで来て出てしまいました。

もう疲れているから、うとうとすればいいのに、何となく、はっきりしてきてしまいます。

何とかMRIは終わり、今度こそこれですべて終了かなと思ったら、執刀医のM先生と主治医のM先生(別室で全体の映像やモニターなどみて執刀医に指示している)が何やら話し合っているのが聞こえます。

 

要は、見た目は、とり切れているが、MRI上はまだ残っているので、さらにとりにいくようなこと…。

ここで、僕の頭のそばで、執刀医が椅子に座って、また何やら始める音が聞こえます。

ここで、僕はギブアップ。

多分、この時点で午後6時は回っていたと思います。

目の前の空間のないことへの恐怖と、エンドレスな時間への恐怖、じっとしていること、不快感などすべてが重なって、息が出来ない状態になり、空気が足りない、そして今度は過呼吸状態という悪循環になり、もうすでに限界に達し、先生に自ら「もう限界です」と告げました。

 

すると、先生は、もうすでに、最後の部分に達していたのか、意外にあっさりと、「武井さん、よーく頑張ったね。あとちょっとだから、最後は、ちょっとだけ麻薬もるね。」と言って、麻酔科に連絡取るよう、看護師に指示しました。

 

すると、看護師が、麻酔科に電話で連絡しているのが聞こえます。

正直、「麻酔科、ずっと、立ち会ってないのかよ」とちょっと思いましたが、ほどなくして重い扉が開く音がして、麻酔科の先生が到着。

 

でも、やっぱり完全に眠らせてくれるわけではなく、なんとなく気持ちよくしてくれる感じ。

麻薬ってこんな感じなんだろうなぁって思ってました。

 

このため、先生たちの会話もなんとなく記憶にあります。

そのあと、先生に、「顔の神経の部分これからとりにくよ。」「顔面の麻痺が出るからね」って言われ、「そんなこと、今言われても…」って考えた記憶があります。

 

そして、「終わったよ。武井さん。お疲れさーん。」って軽く言われ、そのあと、硬膜なのか、皮膚の表面なのかわからないけど、なんか縫われているような感覚を覚えています。

 

しかし、皮膚の表面はもちろん、ホッチキスみたいなものなので、あの感覚は、硬膜を縫っていた時のものでしょうか?

 

 

その後、いろいろ処置をして、すぐにICUに運ばれました。

 

ICUでは、普段、消化器系5床、脳神経5床がほぼ満床ですが、僕の時は、消化器系2床、脳神経2床しか埋まっていなくて、比較的落ち着いた感じでした、というか静かな夜でした。両隣に誰もいない状態でしたから。

 

まぁ、誰かいても、見る余裕も、気を回すも全くありませんでしたけど…。

 

午後8時ころには、先生たちが回診にきて、手術が成功だったこと、詳しい結果は後日だけど、ほぼ95%以上100%近く取り切れたこと。腫瘍の性格もインスタントの検査では比較的おとなしいものだったこと。などを伝えてくれました。

 

そこには、妻、父親、兄も駆けつけてくれました。

 

さすがに、まだ、左の顔面の麻痺がひどかったため、この時点では、何を言っているかわからなかったと思いますが、多分、僕はただ、「終わってよかった、疲れたー。」って叫んでいたはずです。

 

あとで妻に聞いたら、何言ってるかわからなかったらしいですが。

 

あとはただ泣いていました。

だって、また、生きてみんなに会えましたし、第一左手が動いているんですから。

 

これ以上何を望むんでしょう?

 

ICUでの一晩は、寝ているような、起きているような、少しずつ水を飲むことを許される時間を目指しながら、でも、だんだんいろんなチューブや針が抜かれていくと少しずつ楽になっていくことがうれしかったこと憶えています。

 

次の日の昼には早くも自室に戻りました。

一応ここまでが、僕の手術&ICUの1日半の記録です。

 

 

この記録が、少しでも、これからこの手術を経験する方の参考になることを祈ります。

 

もちろん、これから急に思い出すことあるかもしれないので、その時は、加筆するかもしれません。

 

余談ですが、そういえば、術中僕と世間話をしたろ言いましたが、それは、僕を寝かせないためと思います。

 

それ以上に、先生同士の世間話が、聞いてて面白く、『この前、〇〇先生の奥さんにお会いした』とか、『学会で〇〇行ってよかった』とか、しまいには『この前は〇〇で飲んだビール美味かった』とかまで、やっぱり、先生たちも人間なんだな、って思いました。つい、僕も今日、一緒に乾杯したいですっていいそうになりました。

 

本当長時間にわたり、がんばってくれた先生、看護師さん、そのほかスタッフの皆さんに感謝です。

 

そして、家族や、支えてくれたすべての皆さんに感謝です。

 

ありがとうございました。

 

まさしく、いただいた命大切にいていきたいと思います。

 

僕にとって本当の誕生日は5月15日ですが、この10月15日もこれから、第2の大切な誕生日として、大事にしていきたいと思います。

 

 


脳腫瘍ランキング

にほんブログ村 病気ブログ 脳腫瘍へ
にほんブログ村