相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

日本海軍:空母機動部隊小史 1:航空母艦の黎明期

いよいよ日本海軍の「空母」です。

前回、いきなりレイテ沖海戦時の空母機動部隊の紹介、つまり「機動部隊の終焉」から始まった感のあった「航空母艦発達小史」でしたが、このミニ・シリーズは、日本海軍の航空母艦開発小史とともに、空母機動部隊という日本海軍の「発明」品の変遷を追っていければ、と考えています。都度、そのライバルであった米海軍の空母もご紹介できれば。

そんなお話をしばらく、どうかお付き合いください。

その一回目。今回は日本海軍の「航空母艦」こと始め。

 

航空母艦という艦種

航空機が戦力として活用され始めたのは第一次世界大戦に於いてでしたが、わずか数年で航空機は急速な進歩を遂げます。

航空機の特性として、発進時に揚力を得るためにある程度の速度を得ることが必要で、そのために運用には滑走する平面が必要なわけですが、地上で言えば平坦地(野原を整地し一定の距離を確保できた平地)、いわゆる「滑走路」、もしくは穏やかな海面や湖面がこれに適しています。

一方、航空機の役割は、まずはその高速性と自由な機動性、更に高所からの良好な視認性を活用した、いわゆる「偵察」からスタートし、「折角、敵の真上に来ているんだからちょっとなんか落としてやろうか」と「爆撃」(最初はレンガとかそんな物を落っことすところからスタートしたようですが)、更にこれを邪魔する(覗くなよ、落っことすなよ)ための「空中戦闘」へと、それぞれ専用機種の開発へと発展してゆくわけです。

海軍では、穏やかな水面から航空機を発進させ、主として偵察・主砲の着弾観測、補助的に爆撃等に活用し始めます。日本海軍もこの例に漏れず航空機の活用を模索し始めるわけですが、艦隊に随伴して、あるいはその機動性を活用することを考慮すると、これを整備・補給する海上拠点としての「母艦」が必要になってくるわけです。

こうした要請から、まずは水上機の運用拠点として、「母艦」の運用が模索され始めます。水上機母艦の誕生です。

 

最初の「航空母艦

水上機母艦「若宮」

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同艦は、元々は英国籍の貨物船「レシントン」で、日露戦争時(1905年)、ウラジオストックへ向かう同船を日本海軍が拿捕し没収、最初は「沖ノ島丸」と命名し、後に「若宮丸」と正式命名され輸送船として運用されました。

1913年に、おそらく輸送船の艦種分類のまま水上機を搭載して演習に参加、その翌年、水上機母艦任務に適応するよう簡単な改装を受け、日本の第一次世界大戦参戦に伴いドイツ帝国の極東拠点であった青島要塞の攻略戦(1914年)で搭載機を運用しました。これが日本海軍最初の航空作戦となりました。

1915年に輸送船から二等海防艦、いわゆる「軍艦」に艦種を変更され、改めて「若宮」と命名されました。

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日本海軍初の航空母艦「若宮」の概観:93mm in 1:1250 by Hai: 運送船時代のモデル? 水上機母艦として運用された時期には下の写真の前甲板と後甲板の船倉が、格納庫(分解格納)と整備甲板に割り当てられたようです。簡単なキャンバス製の天蓋が設置されていたらしい。搭載機の発進はそれぞれのデリックで水面におろして行われていました)

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1920年には船上に滑走台を設置して陸用機の運用実験(発艦実験)を行っています。同年、日本海軍に「航空母艦」という艦種が新設され、「若宮」は初めてこの艦種に登録された艦となりました。日本海軍最初の「航空母艦」となったわけです。

1925年まで艦隊に所属し、その後警備艦となり、1931年に除籍、売却されています。

 

「艦載機」と「艦上機

筆者はこれまでこの二つの用語を正確に使い分けてきませんでした。これはひとえに筆者の不明によるもので、そのお詫びも兼ねて、表題の二つを整理しておきたいと考えています。

「艦載機」とは広義には軍艦に搭載される航空機全般を指す言葉ですが、狭義には軍艦に搭載されかつ発進に飛行甲板を使用しないもの、つまり水上飛行機か、ヘリコプターを指すようです。

一方「艦上機」とは発進に飛行甲板を使用する航空機を示しています。つまり航空母艦の搭載機がこの「艦上機」にあたるわけです。

これまで本稿では「米機動部隊の艦載機の攻撃を受け・・・」というような表現を、多分多用していきました。広義ではこれでもいいのでしょうが、狭義では「違うなあ」と思っていた方がいらっしゃるのかも。改めてこれは筆者の不明によるもので、全く他意はないことをお知らせし、お詫びします。

用語は難しいなあ。他にも間違った使い方してるんだろうなあ、と少し怖くなってきました。例えば、正直言って「排水量」なんて、色々とありすぎて。都度、「勉強」ということにはなるんですが、いきとどかず、そこは模型のブログなので、どうかご寛容に、お願いします。

 

世界初の航空母艦

航空母艦「鳳翔」

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「鳳翔」は、世界で初めて、最初から水上機ではなく陸用機を海上で運用することを目的に設計された「軍艦」、いわゆる「l航空母艦」です。

第一次世界大戦期に、既に英海軍などでは、陸用機を洋上の軍艦から運用し始めていました。そしてそれを発展させ、戦艦や巡洋艦などの他艦種に広範囲に発着慣用の飛行甲板を装備したりして、「航空母艦」の実用化を行っていました。

日本海軍はこれに非常に関心を寄せ、英国の技術協力により、同艦を完成させました。

こうして「鳳翔」は1920年に起工、1922年に竣工しています。同時期に英国はこれも最初から航空母艦として設計された「ハーミス」を建造していましたが、起工は「鳳翔」よりも早く1918年でしたが竣工は1924年となり、「鳳翔」が世界初の航空母艦となりました。f:id:fw688i:20211010103520j:image

(世界初、航空母艦として設計された「鳳翔」の概観:136mm in 1:1250 by Trident: 下の写真は、主砲として搭載された14センチ単装砲(上段)と竣工時にアイランド形式の艦橋、可倒式の煙突:起立状態です(下段))

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「鳳翔」は、基本的に5500t級軽巡洋艦を拡大した船体に一段の格納庫を搭載した設計になっています。竣工時には15基の艦上機の運用を行っていましたが、そもそもが複葉艦上機の時代の設計であり、船体が短く、併せて幅も狭いため、数次の飛行甲板の拡張、エレベータ幅の改良等を経ても太平洋戦争期の海軍の主力であった単葉艦上機の運用はかなり困難だったようです。

 

太平洋戦争中は、当初、運用可能な複葉の96式艦上攻撃機を搭載して第一艦隊(戦艦部隊)の対潜哨戒等の任務についていましたが、その後飛行甲板を延長し、発着艦訓練の練習空母として活動しています。

終戦まで直接戦闘に入ることはなく、戦後は復員船として活動しました。

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(太平洋戦争初期の「鳳翔」概観 by Trident:アイランド形式の艦橋は撤去され、飛行甲板下の最前部に移動しました。煙突は倒された状態(下段右))

 

ワシントン条約の落し子

航空母艦「赤城」(「天城級巡洋戦艦改造)

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「赤城」は八八艦隊計画で4隻が建造される予定だった「天城級巡洋戦艦の2番艦でした。列強の主力艦の保有枠を決定したワシントン海軍軍縮条約で、同級の建造が中止となり、1番艦の「天城」と2番艦「赤城」が、当時補助艦艇とされていた「空母」に改造されることとなりました。

「天城」はその後の関東大震災で被災し、その損害が大きかったため、改造工事が中止され、代わりに後述の戦艦「加賀」が空母に改造されることとなりました。

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航空母艦として完成した「赤城」の概観:208mm in 1:1250 by Hai: 下の写真は、同館の竣工時の特徴である三段飛行甲板と中甲板に設置された20センチ連装主砲塔(上段):この時期の航空母艦は対艦戦闘を想定して主砲を装備していました。下段は煙突の装備位置と装備方法)

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(「赤城」はワシントン軍縮条約で廃棄が決定された「天城級巡洋戦艦をベースとしています。上段:巡洋戦艦形態の「赤城」(完成予想)と下段:航空母艦形態で竣工した「赤城」)

 

竣工時の「赤城」は巡洋戦艦時代の長大な船体の上に二段の格納庫を乗せた形で完成(船体内にもう一段格納庫を保有していました)し、最上部の主飛行甲板に加え、各格納庫から直結した飛行甲板を持ち、これからも航空機を発進させるような設計でした。ただし中段の飛行甲板部には、最前部に艦橋があり、かつ20センチ主砲の連装砲塔を2基装備していたため、飛行甲板としては運用されませんでした。

小型機は下段飛行甲板から発艦し、大型機の発着艦と小型機の着艦は最上甲板でおこなわれました。

竣工時(1927年には27000トン(公称:実際には29000トン近かったようです)の排水量を誇る大型航空母艦で、31ノットの速力を発揮し、当時は敵艦隊との砲撃戦でもある程度の役割を果たせるように、中甲板の20センチ連装砲2基に加え、船体後部にケースメート式の単装20センチ砲各舷3基(計6基)を装備していました。

搭載機は三式艦上戦闘機16機、十式艦上爆撃機16機、十三式艦上攻撃機28機、計60機(いずれも複葉)でした。

 

1936年から予備艦に移され、先行して大改装を行った後述の「加賀」に変わって一段飛行甲板形式や対空兵装の強化、搭載機数の増大等の改装が行われ、1938年、艦容を一変し艦隊に復帰しています。

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(一段全通甲板形態に大改装された「赤城」の概観:こちらはいずれ詳しく御紹介します)

 

関東大震災で突如のピンチヒッター指名

航空母艦「加賀」(「土佐級」戦艦改造)

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ワシントン海軍軍縮条約で、日本海軍の大建艦計画(八八艦隊計画)は破棄され、「土佐級」戦艦2隻(「土佐」「加賀」)はすでに両艦ともに進水していたにも関わらず廃棄される予定でした。しかし関東大震災により、空母への改造予定だった「天城」の船体が大きな損傷を受けたため、急遽「天城」の代艦として「加賀」が空母への改装を受けることとなりました。

改造の要領は前出の「赤城」に準じて行われ、「赤城」同様の三段飛行甲板仕様の航空母艦として、1928年に完成しました。搭載機数は「赤城」に準じて同様の60機、20センチ砲も主砲として連装砲塔2基、ケースメート方式の単装砲各舷3基搭載していいました。

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航空母艦として完成した「加賀」の概観:197mm in 1:1250 by XP Forge: 下の写真は、同艦の竣工時の特徴である三段飛行甲板と中甲板に設置された20センチ連装主砲塔(上段):この時期の航空母艦は対艦戦闘を想定して主砲を装備していました。下段は同艦で導入された艦尾舷外排煙方式の煙突。「加賀」はこの煙突を両舷に装備しています:後述しますが意欲的な挑戦でしたが、結果的には失敗でした)

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(「加賀」は、ワシントン条約の制約で空母に改造される予定だった「天城級巡洋戦艦ネームシップ「天城」が関東大震災で被災したため、急遽「天城」に代えて、こちらも条約の制約から廃棄される予定だった戦艦「加賀」を航空母艦に改造したものです。戦艦をベースとしたため、速度が航空母艦としては低速になっていました。上段:戦艦形態の「加賀」(完成予想)と下段:航空母艦形態で竣工した「加賀」)

 

しかし「赤城」が高速・長船体の巡洋戦艦をベースとしたのに対し、「加賀」は戦艦を出自としたため、船体が短く、かつ27ノットという、空母としては低速で、飛行甲板への乱気流の影響が課題となった排煙の誘導については、意欲的な実験的取り組みとして飛行甲板への排煙の影響を最小限にするために意欲的な実験として導入された艦尾舷外排煙方式が、「加賀」の低速ではかえって広範囲に乱気流を起こすなどの弊害が露呈したため、「赤城」に先駆けて1933年から大改装を受け、艦容も三段飛行甲板から一段全通甲板に改められ、不評だった艦尾舷外排煙もこの時に改められました。f:id:fw688i:20211010110021j:image

(一段全通甲板形態に大改装された「加賀」の概観:こちらはいずれ詳しく御紹介します)

 

「赤城」と「加賀」:名コンビの比較

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ワシントン条約の制約で航空母艦として完成された「天城級巡洋戦艦:上と「土佐級」戦艦の完成予想の比較。「天城級巡洋戦艦の方が機関が大きく水線長も長いことがわかります。これらの要件はどちらも航空母艦には重要でした。「土佐級」が急遽の代打的な起用だったことが、ここからも伺えます)

 

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(写真上段:航空母艦形態の「赤城」(手前)と「加賀」の比較:こうして見ると飛行甲板の延長には大差がないように見えますが、下段写真を見ると、「加賀」(下段右)が飛行甲板の全長を稼ぐためにかなり艦尾に張り出した飛行甲板を装備していたことがわかります)

(直下の写真:「加賀」(上段)と「赤城」の排煙方法の比較:「加賀」では排煙の熱による上昇気流の飛行甲板への影響を抑えるために艦尾舷外排煙方式が導入されました。舷側に長大な排煙用の煙突がわかります。「加賀」はこの煙突を両舷に装備していました。非常に意欲的な試みではあったのですが、「加賀」の低速では却って排気熱の影響が広範囲に出てしまったようで、結果的には失敗でした)f:id:fw688i:20211010105023j:image

 

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(直上の写真:一段全通飛行甲板に改装された「加賀」(手前)と「赤城」:艦橋の位置が異なることがよくわかります。両艦は太平洋戦争開戦時、日本の空母機動部隊の中核として第一航空戦隊に編成され、大活躍をした名コンビでした。そちらの詳しい話は、いずれまた)

 

ワシントン体制の空母保有枠対策から生まれた小型空母

航空母艦龍驤

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ワシントン条約の空母保有枠を意識して設計された小型航空母艦龍驤」の概観:149mm in 1:1250 by Neptun:s設計途中でロンドン条約が締結され、小型空母も条約の保有制限対象となったため、急遽、格納甲板を一段追加、いかにもトップ・ヘビーな概観となりました)

ワシントン条約では空母の保有にも制限が設けられましたが、10000トン未満の空母は制限枠外とされたため、「龍驤」は搭載機24機、10000トン未満の空母として当初設計されました。しかしその後締結されたロンドン条約で、10000トン未満の空母も制限枠の対象とされ、10000トンの枠にこだわる理由がなくなったため、再度設計が見直され、最終的に二段の格納庫を持ち36機(+保用12機)の搭載能力を持つ小型空母として、「龍驤」は建造されました。

この搭載機増に繋がる設計変更は、上部構造の大型化をうみ、バルジの装着などの対策が取られましたが、復原性に課題を抱えたまま、1933年に完成しました。

12000トン弱の船体を持ち、速力は29ノット、就役時の搭載機は艦上戦闘機12機(+保用4機)、艦上爆撃機6機(+保用2機)、艦上攻撃機12機(+保用6機)、計30機(+保用12機)(いずれも複葉)でした。

 

復原性の課題については、「龍驤」の就役後に発生した第四艦隊事件つでも見直され、バルジの大型化、バラストキール・艦艇バラストの搭載による重心の低下、高角砲の減載などの対策が取られることになります。

 

龍驤」はその建造の着想がワシントン条約の制限枠外で建造できる空母、という発想でしたが、残念ながら建造途中にロンドン条約の締結により、せっかくのこの制限枠外への設計配慮が無駄になってしまいました。このため、艦隊で運用するには中途半端な大きさの空母となってしまいました。

 

黎明期の航空母艦f:id:fw688i:20211010110617j:image

日本海軍お黎明期の航空母艦の一覧:手前から「鳳翔」「龍驤」「赤城」の順。「鳳翔」があまりに小ぶりであり、「龍驤」の飛行甲板が短いことがよくわかります。高速の単葉機が艦上機の主力となって来ると、「鳳翔」「龍驤」の両艦はこれらの運用に支障が出るようになってゆきます)

 

条約型中型空母構想の萌芽

この後、「鳳翔」が条約での退役可能年限(つまり代艦が建造できる)を迎えるのですが、これにより20000トン枠での新造空母を建造することが可能となります。これを「赤城」「加賀」と合わせて運用するためには複数の空母を建造することが理想とされ、1934年の第二期建艦計画(丸二計画)では、艦政本部に以下のような要求が提出されています。排水量10050トン(ロンドン条約の規定により枠内で2隻の航空母艦を建造する場合の上限値)、速力36ノット、搭載機100機、主砲20センチ砲5門、高角砲20門、対空機関砲40基。

この要求は夢物語の類であるとして、設計側はそれでも排水量10050トン(ロンドン条約の規定による)、搭載機70機、主砲15.5センチ砲5門、高角砲16門という、これも先述の「龍驤」の仕様を考慮すると途方もない設計案を一応の結論として持っていたようです(これは「蒼龍」原案と名付けられているようです)。

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(皆さんもなんとなくお気づきのように、こうした情報に触れるとどうしても形にしたくなる筆者の性がむくむくと鎌首をもたげてきて、ああ、少し手をつけてしまいました。どこまで真剣にやるかは、まだ決心がついていませんが、「蒼龍」原型の飛行甲板下の主砲配置(15.5センチ砲、連装と三連装で5門)です。もう少し配置を後ろ寄りにしても良かったか、という思いもないではないですが、後の「蒼龍級」の前方エレベータの位置を考慮すると、この辺りかと。ストックの古い「雲龍級」(多分?)のモデルをバラして少し加工しています。後いくらか手を入れれば完成させられるかも。しかし、これではどう転んでも基準排水量10050トンには収まらないだろうし、搭載機70機というのも???(複葉機ならいけるのかな?)現実的には「蒼龍」と同じ50機台なんでしょうね。煙突が原案の図面では艦橋後部に直立しているように見えるんですが、この辺りもどうするか、今後の考えどころです。もう少し資料がないかな?)

 

その後、例の第四艦隊事件による海軍艦艇全般の復原性への見直しが行われ、この原案もお蔵入りになりました。

いずれにせよ、設計の焦点は次の中型空母構想へと向かってゆくことになります。そして空母の集中運用の思想が芽生えてくるわけです。

そのお話は、また次回に、ということで今回はここまで。

 

しばらくこんな感じで、日本海軍の航空母艦発達小史を予定しています。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

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