今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

貞観津波と「末の松山」が物語る震災忘却の歴史

 マグニチュード(M)9.0の東北地方太平洋沖地震東日本大震災)から10年がたつ。今年も「3・11」には、新聞もテレビも「あの巨大地震を忘れてはならない」と特集記事や特番を組む。あの悲劇を思い出したくないと思う人もいるだろうが、やはり、これは続けなければならない。人間は忘れる生き物なのだ。

 それは、10年前の地震に匹敵する超巨大地震だったとみられる貞観じょうがん11年(869年)5月26日夜に発生した貞観地震の伝承でもうかがい知ることができる。コラム本文では、貞観地震の教訓を歌枕にした和歌に注目し、地震の記憶が人々からいつごろ、どのように消えていったかを紹介した。

読売新聞オンラインのコラム本文

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 津波が決して届かない届かない「末の松山」

 貞観地震による大津波で仙台平野はほぼ一面が冠水したが、国府多賀城の宝国寺にある末の松山(宮城県多賀城市八幡)には届かなかった。「末の松山」は「決して波が越えることがない地」として、好んで和歌に詠まれる言葉(歌枕)となった。

 最も有名なのは、小倉百人一首にも選ばれた清原元輔きよはらのもとすけ(908~990)が詠んだ『後拾遺ごしゅうい和歌集』にある歌だろう。元輔は『枕草子』の作者、清少納言(966?~1025?)の父で三十六歌仙のひとりという高名な歌人だ。

 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは
 (私たちは心変わりすることはないと約束したのに。お互いの着物の袖が涙で絞れるくらいらして、末の松山を波が越えることはないのと同じように)

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百人一首の絵札に描かれた元輔

 この歌には、元になったと思われる歌がある。『古今和歌集』に収められた陸奥の詠み人知らずの歌だ。

 君をおきて あだし心をわが持たば 末の松山 波も越えなむ
 (あなたを差し置いて、他の人への浮気心を持つようなら、末の松山を波が越えてしまうでしょう)

 元歌の特異点から浮かび上がるのは

 こちらも恋の歌で、「末の松山を波が越えない」ことを、絶対にないことの例えにしているが、三重大学教授の松本昭彦さんによると、『古今和歌集』や『万葉集』に収められた同様の恋歌にはない特異な点があるという。「恋心がなくなることは、川が急に干上がったり、月が夜空から消え失せたりという『絶対に起きない自然現象』が起きるほど稀有のことだ」という構成で恋心が永遠に変わらないことを強調する歌は、ほかにも『古今和歌集』や『万葉集』にある。だが、他の歌は「絶対に起きない自然現象」を先に詠み、「恋心の変容」を後に続けているのに、「君をおきて」の歌だけ、この順番が逆転しているというのだ。

 松本さんは『「末の松山」考』と題する論文で、この理由を、貞観地震津波の記憶が残っている人には、順番を逆にしなければ歌の意味が伝わらなかったからではないか、と推測している。

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末の松山(宮城県多賀城市

 貞観津波は、確かに末の松山には届かなかったが、すぐ近くまで迫っていた。つまり、地震の記憶が鮮明だった陸奥の人にとっては、末の松山を波が越えることは「もう少しでありえたこと」だった。にもかかわらず、定型に従って「末の松山波越さば あだし心を我は持ちなむ」と詠んだら、陸奥の人たちは、浮気心が頭をもたげ、もう少しであなたのことを忘れてしまうかもしれない、と受けとってしまいかねない。

 順番を逆にしたことで、「私が浮気心を持つようなら、末の松山のすぐ近くに迫った波が末の松山を越えて、避難してきた多くの人の命を奪ってしまう。だから絶対に私は浮気心など持たない」と固く誓約しているようにも読み取れる。『古今和歌集』が編纂へんさんされたのは延喜5年(905年)で、歌が詠まれたのはそれより前だから、陸奥には貞観地震に遭遇した人が多くいた。詠み人があえて定型と逆の順序にしたのは、地震の記憶が反映された結果かもしれないわけだ。

貞観地震の詳しい状況、朝廷に残らず

 だが、大多数の平安貴族たちは貞観地震を体験せず、被災地に足を運んでもいない。被害状況は都にも報告されたが、末の松山は「絶対に津波が届かない地」としか伝わらなかったのだろう。松本さんによると、貞観地震の20年後に詠まれた歌には、早くも「君まつ山は 波さえ越えて」のように、地震の深刻な被害を知っていれば使わないだろう比喩が登場している。大震災の詳しい状況を知らない京都の貴族たちからは、早い段階で地震の記憶は消えていたのだろう。

 貞観地震より後に生まれた元輔も、そのひとりだったのだろう。「君をおきて」の元歌が「絶対に心変わりしない」という「誓い」の歌だったのに、元輔の歌は冒頭から「契り」という弱い表現を使い、その契りすら反故ほごにされたことを恨んでいる。

 時が経つにつれて末の松山の記憶はさらにあいまいになり、「末の松山」は東北の海岸に生える松」としたり、「波が越える」とは「海上から陸を見た時に遠近法で波濤が陸地の松を越えるように見える様子」としたりする解説がまかり通るようになる。歌に託した無名の詠み人の警告は、地震の記憶とともに忘れられた。

地震はまた必ずやってくる

 今では、映像や写真で災害の模様は詳しく記録できる。しかし、記録と記憶は同じではない。震災から10年の節目に記録を見直し、記憶を呼び覚ますことは、だから重要なのだろう。

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 コラム本文では、貞観地震の前後に日本全国で地震や火山の噴火が相次いだことも紹介し、日本の地下に活動期があるのではないか、との見方があることも紹介した。いたずらに不安をあおる気はないが、東北では大震災から10年を経て、まだ大きな地震が起きている。それを余震と呼ぶべきかどうかはともかく、日本で暮らす限り、われわれは地震を忘れてはならない。

 

 

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