今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

本栖湖の水中遺跡 土器が語る富士大噴火

 富士北麓の夏の喧騒けんそうが過ぎた後、富士五湖のひとつ、本栖湖の湖底で学術調査が始まる。帝京大学文化財研究所(山梨県笛吹市)と富士河口湖町身延町教育委員会が、最新の探査技術を使って「謎の水中遺跡」を探るのだ。今回は、調査を前に、この水中遺跡についての話だ。

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ダイバーが見つけた古墳時代の土器

 本栖湖は全国でも有数の透明度を誇り、湖底に沈木や巨大な溶岩が眠る神秘的な風景が広がる本栖湖は、多くのダイバーが集まるダイビングの名所になっている。

 土器を最初に見つけたのはダイバーで、平成2年(1990年)ごろから、「東側の湖底で土器をみつけた」との通報が相次いだ。当時の上九一色村(現在は南部は富士河口湖町、北部は甲府市と合併)が平成10年(1998年)から翌年にかけて湖底を調査したところ、多数の土器がみつかった。多くが古墳時代前期(5世紀前半)に作られたとみられ、縄文時代中期のものもあった。

25年前の調査で湖底から見つかった土器(富士河口湖町教育委員会提供)

樹海と西湖、精進湖を作った平安時代の富士大噴火

 富士山は貞観じょうがん6年(864年)から2年間にわたり、有史以来最大の「貞観の大噴火」を起こしている。平安時代初期に天皇の命でまとめられた勅撰ちょくせん国史日本三代実録』は、そのすさまじい被害を以下のように記している。

 「噴火の勢いはものすごく、山腹の小岡や岩を焼き砕き、草木を焼け焦がし、これらを巻き込んだ土石流(溶岩流)が本栖湖と『の海』を埋めた。熱した溶岩流が流れ込んだ両湖の水は沸騰して湯のようになり、生息する魚類は死に絶え、溶岩流の通路に位置した民家は流されて湖の中に埋まり、また、埋没の難を逃れても住人が死んだりして無人となった家は数知れない」(現代語訳は『富士吉田市史』に基づく)

富士五湖と剗の海

 「剗の海」は富士北麓にあった湖で、この時の噴火で流れ込んだ大量の「青木ヶ原溶岩」によって西湖と精進湖に分断された。1000年以上を経て青木ヶ原溶岩の上に生えた原生林が、今の青木ヶ原樹海だ。本栖湖にも溶岩が流れ込んだことは地質調査でも裏付けられており、湖岸にある 上野原かみのはら遺跡では、固まった溶岩流の下から平安時代の土器が出土している。

富士北麓に広がる青木ヶ原樹海

平安時代の噴火で古墳時代の土器が沈んだワケ

 湖底から見つかった土器は平安時代より300年以上前のもので、貞観の大噴火とは無関係にも見える。だが、この水中遺跡の調査に長年携わってきた富士河口湖町教育委員会学芸員の杉本悠樹さんは、水中遺跡は貞観の大噴火によって生じたとみている。

 これまでのレーザー波を使った調査で、貞観の大噴火によって本栖湖の水位は約15メートルもも上がったことがわかっている。水中遺跡の水深は最大15メートル。土器は溶岩流の直撃を受けず、本栖湖の水位が上昇して集落もろとも水没したのではないか。

 本栖湖に流れ込んだ溶岩は湖を埋めるほどではなかったにもかかわらず、水位が15メートルも上がった理由は、今も精進湖、西湖と本栖湖の水位が連動して上下し、ほぼ同じなことから推測がつく。大量の溶岩に押しやられた剗の海の湖水が、溶岩を浸透したり、三つの湖を結ぶ地下の水路を通ったりして徐々に本栖湖に流れ込んだのだろう。本栖湖の水位は一気に15メートル上がったのではなく、徐々に上がったとすれば、湖底の土器が衝撃を受けず、原形をとどめている理由も説明できる。

なぜ本栖湖の湖畔に土器があったのか

 本栖湖の湖畔には、静岡と甲府を結ぶ「中道往還」が通っていた。往還甲府盆地への入り口にあたる曽根丘陵には、古墳時代前期では東日本最大級の前方後円墳である甲斐銚子塚古墳(山梨県甲府市下曽根町)があり、古墳からは三角縁神獣鏡や鉄剣など、ヤマト王権とのつながりを示す副葬品が出土している。甲府盆地ヤマト王権の勢力圏の東端に位置し、中道往還は畿内と東国の最前線を結ぶ重要な幹線路だった。

若彦路の河口湖以南ルートには諸説あり

 「本栖湖の湖底から見つかった台付き甕は、本栖が西日本から甲府盆地への文化の 伝播を支える中継地だったことを示している。ヤマト王権は要所に集落を設けて中道往還を維持・管理し、本栖湖畔はそのひとつだったのではないか」と杉本さんは推測する。

被災しても「元の巣」に帰る村人

 本栖湖の南側には「竜ヶ岳 」という山がある。地元の伝説では、湖に住んでいた竜が、流れ込んだ溶岩の熱に耐えかねて、この山に逃げ込んだという。竜は富士山が噴火する前に本栖湖畔の村に現れ、村人に噴火を警告した。竜のお告げで避難して命拾いした村人たちは、竜を「古根ふるね 龍神」と あがめるようになった。

  「本栖」の名前の由来は、村人たちが、噴火で被災した「元の巣」に戻って暮らす決意をしたことにちなむという伝承もある。

 本栖湖の湖底には龍神伝説を裏付けるような、富士山の噴火と背中合わせに暮らした人々のたくましい歴史が刻まれている。

 

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