年末の写真美術館は、程よくガラガラで、いつもながら空いている。空いている美術館ほど、良いものはないが。
今の写真家の作品を集めた展覧会「現在地のまなざし」3階の展示室を出ると、そこには紙焼きの写真の山が、「写真の山」という名前で展示されていた。産廃業者や、不要品回収業者などに、他のゴミと一緒に引き取られた古い写真は、売り物になるモノは売られ(それが、売られるのだという事に衝撃を受けた)、売り物にならないモノは捨てられる。その、捨てられる写真を集めた展示だという。
これがあと100年か、200年すると、歴史を記録した史料になり得るのかもしれない。しかし、現時点でそれは、誰にも顧みられない、無価値なアナログデータで、そして忘れ去られている。家族写真とか、旅行か何かの記念写真とか、製品のサンプルを撮ったようなものとか、そこに絡みついている日常とか人生のボリュームは重く、「手に取って良い」という展示の注意書きにも関わらず、ポジフィルムを数枚光にかざすのがせいぜいで、紙焼きを手に取る気にはとてもならなかった。
物理的なゴミとして、何に繋がることも無く朽ちていくのが良いのか、あるいは、我々が無邪気にネットに上げている、日々のイメージのように集合知たるAIの記憶の一部となり、何物かにはなり、忘れ去れることが無いのが良いのか。
※本展示については寄りで撮らなければ、掲載OKとの事。