ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

声を上げて、心を注ぎ出して祈ること

2023-01-11 14:28:18 | 旧約聖書

クリスチャンになってからは、怒りや悲しみで、神にも人にも、泣いて訴えたことがない気がする。夫が召された時も、悲しかったけど神様には感謝の祈りをした。人を恨むことがあっても赦すように命じられているし、裁きは神がなさるので私は委ねることにしている。最悪、悲惨に状況に陥っても、ともにおられる神が万事を益としてくださる。命を落とすことになっても行先は天国であるいう、ノーテンキでいる。混乱状態に陥りたくない。これ以上の悲しみや苦しみはない!!という状況下にいる人には、馬鹿にされるだろうか。

 

バイブルプロジェクト 哀歌の文字起こしから

 

哀歌この書は5つの詩からなる旧約聖書 の独特な書です。著者の名前はわかりませんが エルサレムの陥落を生き延びた人物です 詩の内容はバビロンに包囲され陥落した都と民が捕囚にされる 様子を描いています。この出来事は第二列王記に記されています エルサレムの陥落と民の捕囚はそれまでのイスラエルの歴史の中で 最も恐ろしい大惨事でした。

 

神はアブラハムに新しい土地を 約束していました。そしてイスラエルの首都エルサレム を建てるためにダビデに勝利を与えたのです ダビデの子孫は代々王となってきました 神は神殿に臨在して祭司たちはその神殿でイスラエル の礼拝に伴う儀式を行ってきました。この500年に及ぶ歴史の末に紀元前 587年の夏その都がバビロンによって陥落 させられたのです。すべてが滅ぼされ街は廃墟になりました 哀歌はその悲惨な記憶とこの破滅のあとのイスラエル人の 混乱を記しています

 

嘆きを歌った詩は聖書の中で珍しくなく詩篇にはたくさんあります。そして聖書の嘆きの詩にはいく つかの意味があります。それはある種の抗議の詩であり この世界で起きている見過ごすことのできないひどいことに人々や神が目を向けるよう訴えるものです。また感情を整理する手段でもあります 人の罪のせいで起こる悲惨な出来事への怒りや動揺を こういった詩の中で発散させているのです また混乱を表現する方法にもなっています

苦しみは神のご性質や約束に対する疑問を生じさせますが 聖書はそれらの疑問を軽視するどころか大事なこととして扱います 嘆きの詩は人の苦しみに敬意を表し尊厳を与えていま こうして神に向かって嘆く人間の言葉が 今やご自分の民に対する神の御言葉となっているのです

 

5つの詩の構成は非常に意図的でそれ自体がこの書のメッセージ の一部になっています1章から4章はアクロスティック と呼ばれ行の最初の文字が22字からなるヘブル語のアルファベット で始まっています。このしっかりと整った構成が 苦痛に満ちた嘆きの詩の混乱した内容と対照的で あたかもイスラエルの苦しみがaからzまで進んでも語り尽くせ ず表現できないことを表現しようとして いるかのようです

 

1章と2章は 一つの字につき一つの節という同じ構成でありながら テーマは全く異なります。1章はシオンと呼ばれる女性の嘆きと恥に焦点を当てています。詩の中でエルサレムは擬人化されて 未亡人あるいは娘シオンと呼ばれ一人 寂しく座っています。彼女は愛する者を奪われ 打ちひしがれていますが慰めてくれる人はいません これは強烈な隠喩です。そしてシオンは主に向かって声 を上げ、自分の境遇に目を向けてください と訴えます。このたとえを通してこの詩は エルサレムの壊滅によってイスラエル人が受けた心の傷は 愛する者の死と葬儀を体験するのに匹敵することを示している のです

2章はエルサレム陥落に焦点を当て それがイスラエル人の罪の結果であり 神の怒りがもたらしたものであることを描き 怒りがこの詩のキーワードになっています。ここで重要なのは聖書における 神の怒りとは、理由もなく気まぐれに発せられる ものではないということです。聖書の中の詩や預言書は この言葉を神の正義という意味で使います イスラエルは神と契約を結びました。しかし何世紀にもわたってほかの 神々を拝んだり弱者を抑圧して不正を働いたり してこの契約を破り続けてきたのです 神は怒るのに遅い方ですが最後にはこの人間の罪に正義をもって 怒りを燃やし罰というかたちでそれを表します エルサレムの場合はそれがバビロンに街を征服されるという 形でやってきました。この詩は神の怒りを正当なもの として描いています。その上で詩人はこの悲劇を嘆き 神にもう一度あわれんでくださいと願っているのです

 

3章は1章と2章とは違って1字につき3節あるので この書の中で最も長い詩になっています。自分の苦しみを嘆く孤独な男性 が語っていますが、これは民全体の声を代表したもの です。そして興味深いことにこの章は 旧約聖書の別の書からの引用で満ちています ヨブの嘆きの詩、詩篇の中の有名な嘆きの詩、 またイザヤ書の苦難のしもべの詩もあります そしてこの詩は彼の苦しみを2章で言っている通り神の裁きの ゆえだと見なしているのです。逆説的なようですがそのことが 著者に希望を与えこの書の中で唯一の希望の言葉 を語らせているのです。

主の契約の愛のため私たちは滅び なかった。主のあわれみは尽きず朝ごとに 新しい。神よあなたの真実は偉大である 私のたましいは言う。主こそ私の割り当て。それゆえ私は 彼に希望をおく。

この詩は神が預言された裁きを 間違いなく実行する方なら最終的には悪に勝利するという 約束もまた間違いなく果たされるだろうと結論付けています だからこの詩における神の裁きは未来の希望の苗床なのです

 

4章は1章と2章と同じ1字につき1節のスタイルに戻り 2年間のエルサレム包囲について生々しく心がかき乱されるような 描写をしています。そして過去のエルサレムの様子 と包囲されてからの悲惨さを比べ ています。
以前は道端で遊び笑い声をあげ ていた子供たちが今は食べ物を乞いごちそうを食べて いた。
金持ちはほこりまみれのものでも食べられる ものはすべて食べます。
まばゆい身なりの高貴な人たち は飢えに苦しみ汚れはて誰だか見 わけもつきません。
そしてダビデの子孫である油注 がれた王は捕らえられ連れ去られました
これらの対比がイスラエルが自ら招いた苦しみの深さをえぐりだし この詩にすごみを与えているのです。

 

最後の詩はこれまでのパターンを崩す独自のものです ほかの章と同様22節ありますがアクロスティックにはなってお らず、まるでもはや整った形を保てず 嘆きがほとばしり出て乱れてしまったようです。この詩は神のあわれみを乞うイスラエル 全体の祈りなのです。イスラエルは自分たちの苦しみ を無視したり見捨てたりしないでほしいと神 に懇願しています。この詩には都の陥落によって打ち のめされたあらゆる種類の人々が挙げられて います。彼らは他の人々のために嘆き彼ら の苦しみのために声を上げ、彼らを忘れないでくださいと神 に願っています。この書においては黙って苦しむ ことは美徳ではありません。神の民は感情を押さえつけるの ではなく声を上げて訴え神の前にすべて注ぎ出すように 勧められているのです。

 

哀歌は逆説的な終わり方をしています 神は永遠に世界の王であることを認めつつ この悲惨な状況はイスラエルに神などどこにもいないかのように 感じさせると言っているのです。結びの言葉はこの矛盾を残したまま あなたが本当に私たちを退けたのでなければと締めくくります 心地よくすっきりと終わらないこのエンディングは 私たちのリアルな痛みと苦しみのようです 聖書のストーリーはこれで終わりではありません しかしこの書は嘆きと祈りがこの損なわれた世界を生きる信仰 の旅路にとって重要なものであることを示しています これが哀歌です

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