境内のミツマタを撮ってみました。
可愛らしいですね。
本格的な春の訪れが待たれます。
今月の『高尾山報』「法の水茎」も、弘法大師空海をめぐるお話です。東京上野に伝わる「谷中清水稲荷」伝承について書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。
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「法の水茎」151(2025月1月号)
昨日よりをちをば知らず百年の
春の始めは今日にぞ有りける
(『拾遺集』紀貫之)
(昨日より以前はさておき、これから百年も続く春の始めはまさに今日という日なのだ)
年が改まって、いよいよ令和7年(2025)の頁が始まりました。真新しいカレンダーを眺めながら、今年こそ「穏やかな年になりますように」と心新たに祈ります。
冒頭の「昨日より」の歌は、屏風絵(屏風に描かれた絵)に合わせて詠われたものです。もとの家集である『貫之集』には、詞書に「あつまりて元日酒のむ所」と記されており、年の初めに寄り集まって酒を酌み交わす姿が屏風絵には描かれていたのでしょう。これから「百年」(長い年月)の寿命が続いていくことを皆で言祝いでいるようです。
お酒といえば、令和6年12月5日に日本の「伝統的酒造り」がユネスコの無形文化遺産に登録されるという嬉しいニュースが舞い込みました。私たちの身近にあるお酒は、日本の伝統文化に欠かすことのできない存在として今日まで伝えられてきました。
例えば、年頭に飲む薬酒は「お屠蘇(とそ)」と呼ばれます。『年中行事歌合』(貞和5年〔1350〕)には、二条良基(1320~1388)の言葉として「屠蘇白散といふ薬は、一人これを飲みぬれば一家に病ひなし、一家飲みぬれば一里に病ひなしといふ」(屠蘇・白散という漢方薬は、正月に酒に入れて一人飲めば、その家族に病がなくなり、家族で飲めば、一里(約4キロメートル四方)の家々に病がない)と記されています。「屠」には邪気を打ち負かし、「蘇」には命が蘇るという意味があるように、中国からもたらされたお屠蘇は、邪鬼を払い、延命長寿をもたらしてくれる薬用酒として日本に広まっていきました。そして次第に新年の風習の一つとして、普通のお酒も「お屠蘇」と称して飲まれるようになっていったのです。
「酒は百薬の長」(酒は適量に飲めば、多くの薬以上に健康に良い)という諺がありますが、やはり飲み過ぎは禁物でしょう。
花のもと露のなさけはほどもあらじ
酔ひなすすめそ春の山風
(『新古今集』寂然)
(花の下で、少しだけ露の情けを感じても、すぐに覚めてしまうだろう。酔いを勧めないでほしい、春の山風よ)
歌に見える「露の情け」は「わずかな楽しみ」を意味するとともに、「なさけ」という響きには「情け」と「酒」とが掛けられています。春の晴れやかな心持ちとともに、ついつい進んでしまうお酒ですが、「花は半開、酒はほろ酔い」(物事は完全でないところにかえって味わいがある)という言い回しもあるように、ほんのり浸った「ほろ酔い機嫌」くらいが適当なのかもしれません。また近年は、お酒と程よい距離を保たれている方も増えているとか。正月の縁起を祝う「福茶」(昆布・黒豆・山椒・梅干などを入れた茶)をお屠蘇代わりに、今年一年の家内安全・無病息災を願ってみるのもよろしいのではないでしょうか。
さて、弘法大師空海(774~835)にもまた、お酒を含めた水にまつわる伝説が全国各地に残されています。諸国を巡行中に、杖を突き立てたところに井戸や泉ができ、そこから清水や酒、温泉などが湧き出したという「弘法清水」「弘法水」と呼ばれる伝承ですが、そうした中から今回は東京上野に伝わるお話を取り上げてみたいと思います。
京成上野駅から不忍池と上野公園の間の道を抜けると、やがて都立上野高校の正門前まで続くゆるやかな上り坂に辿り着きます。この坂は「清水坂」と呼ばれ、『江戸名所記』(寛文2年〔1662〕)には、かつてこの地にあった「谷中清水稲荷」をめぐって次のような言い伝えが記されています。
昔、お大師さまが修行でここを通られた時のこと。たいそう喉が渇いていました。するとそこに一人の年配の女性がいました。水桶を抱えて、遠くから水を運んでいました。
お大師さまが水を求めると、女性は気の毒に感じて、お大師さまに手元の水を差し上げました。そして「この土地には水がありません。いつも遠くに汲みに行くのを辛く感じています。私には一人の子がいますが、長いこと病に臥せっていて、やっとの思いで養っています」と嘆き語るのでした。
お大師さまは憐れみ、独鈷杵(金剛杵)を手に持ち地を掘ると、忽ちにして清水が湧き出したのでした。その水は、夏は冷たく冬は温かで甘露のように美味しく、井戸は夏の日照りでも枯れることがありませんでした。
お大師さまは、ここに稲荷明神を勧請(神仏を迎えること)しました。そして女性の子が、さっそくこの水で身を洗うとすぐに病は癒え、それ以来、この清水は万病に効いたことから「清水稲荷」と呼ばれるようになりました。さらに家々も増えて、この地をお大師さまを慕って「清水町」と名付けたのです。
(『江戸名所記』)
「清水坂」の辺りは、かつては木々が鬱蒼と茂っていたために「暗闇坂」とも呼ばれました。谷中清水稲荷は、元禄年中(1688~1704)に駒形堂の南方(現在の台東区駒形)へと移転しましたが、「清水坂」は、お大師さまの慈悲の面影を残しながら、今にその名を留めています。
ちはやぶる神や切りけむ突くからに
千年の坂も越えぬべらなり
(『古今集』僧正遍昭)
(この杖は神が切り出したものでしょうか。突いて歩けば、千年の坂でも越えられそうです)
この歌にあるように、「坂」は「栄え」に通じます。厳かな「暗闇坂」の静寂を思い浮かべながら、本年の光あふれる「弥栄(いやさか)」(繁栄)を心よりお祈りいたします。
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最後までお読みくださりありがとうございました。