トマス・ハリス(William Thomas Harris III 1940~ )は、アメリカの小説家。テネシー州ジャクソン生れ。マイアミ在住。

 AP通信社のレポーター兼編集者を経て、パレスチナゲリラによる、スーパーボール会場へのテロという近未来的な『ブラック・サンデー』を1975年発表し、ベストセラーとなった。狂気の精神分析医ハンニバル・レクターが登場する『レッド・ドラゴン』を1981年に、次いで7年後の1,988年、ハンニバル・レクターとFBIアカデミー訓練生クラリス・スターリングをフィーチャーした『羊たちの沈黙』を発表した。本作品は映画化されアカデミー賞を受賞、大ヒット映画となった。
 1999年に『ハンニバル』。2005年『ハンニバル・ライジング』とハンニバルシリーズを発表している。その他の作品も映画化されている。
 2019年には、ハンニバルの登場しない、麻薬王の遺産を巡る争いを描いた『カリ・モーラ』を出した。寡作な作家で、表に出るのを嫌い、個人的生活や見解は多くは語られていない。

 米国のミステリは心理学、精神分析の思考を導入している作品が多い。時代的に「羊たちの沈黙」がミステリの心理学ブームの流れを創ったかというと、そうでもなさそうである。エラリークィーンですら精神異常者を取り入れており(Yの悲劇)、20世紀前半からミステリへの心理学導入は珍しくはなかったからである。戦後の米国社会の異様な心理学信仰を背景に、流れを後押ししたとは言えるかもしれない。FBIのプロファイラーが脚光を浴びたのもこの頃からである。

 現在では、パトリシア・コーンウェル、スー・グラフトンなど、多くの推理作家が当然のように精神異常者や精神分析者を登場させている。探偵小説にスリラー、ホラー風味を加えようとすれば不可欠な存在である。米国産小説に描写される心理学的、精神分析学的現実は精神カウンセラーや精神科医の診断が神の言葉となる米国社会を知らなければリアリティを感じないかもしれない。やや古いが心理学に汚染された米国の状況を批判的に論評した「フロイト先生のウソ」 (文春文庫:ドイツのジャーナリストによるノンフィクション)が理解の助けになる。

 ここのところ、手にする本が精神分析を下敷きにしているものばかりで、へきへき気味である(読んだ後で心理学系統作品だと分かることが多いので)。日本では、この分野は精神病院、気違い病院、精神科医など用語も少なく精神カウンセラーはあまり知られていない。英語では精神科医の俗称だけでもシュリンク、エイリアニストなど数多く、精神科医も分野、職業により細分化されているので多くの単語がある。ミステリの頻繁に登場するFBIプロファイラーや法務精神科医も、この類である。日本語の環境とは違いすぎるので正確な読解は難しい。

 本書は猟奇、サイコスリラーの推理小説で、話は危険なほど面白い。ミステリを読んで、心理学・精神分析に嵌まる人もいるかもしれない。この分野は、学派・著作者により、また時代により大幅に変わるので(二重人格は多重人格と言われるようになり、現在では精神科医のタームではなくなっているのだとか)、特定の論説を真実だと思うのは危険である。「へー、そうなんだ」くらいが丁度いい。

<ストーリー>
 クラリス・スターリングはクワァンティコにあるFBIアカデミーの訓練生である。バージニア大学で心理学と犯罪学を専攻し、FBI行動科学課の課長ジャック・クロフォードの講義に心を動かされアカデミーに入ったのだった。射撃や運動に優れ成績はトップクラス。寮で同室のアーディリア・マップは学業成績が良くトップを争う訓練生で、仲の良い友人だった。

 クロフォードに憧れてアカデミーに入ったのだが、彼から声が掛かることはなかった。10年近い実務経験が必要だと分かっていたが、プロファイリングで犯人に迫る行動科学課に入りたいと思っていた。大学では心理学を専攻していた。
 そのクロフォードから呼ばれた。連続殺人犯に会ってアンケート報告書を纏めてくれという依頼だった。行動科学課では連続殺人犯のデータベースを創っているが、完成期限は迫っているのに手が足りないと言う。
 5人の女性を殺し、皮を剥いで死体を捨てた連続殺人犯「バッファロー・ビル」にマスコミは大騒ぎしており、行動科学課が忙しい理由は察しがついた。

 依頼された連続殺人犯は、ハンニバル・レクターでボルティモアの精神病者用刑務所に収監されていた。インタビューに応じた事がなく、近づく者には危害を加えていた。看護婦は鼻を噛み千切られ、インタビューしていたFBI捜査員は顔を刺された。
 クロフォードは、彼が話さなければ聞く必要はない、その旨報告書に書けばいいと言う。レクターを逮捕したのはクロフォードで、彼を分かっていた。

 クロフォードの妻ベラは不治の病で入院していたが自宅に戻っていた。二人は、20数年共に過ごした家を死に場所と決めたのだった。クロフォードは通いの看護婦の手を借りながら世話をしていた。

 クラリスは、ボルティモアに行き、メリーランド州立精神病者用刑務所のチルトン所長に会った。彼は、レクターに会うの無駄だと、帰れと言わんばかりだった。収監棟の門衛バーニーが、廊下は真ん中を歩く、レクターには近づかない等の注意事項を教えてくれながら案内してくれた。各部屋の奥にうごめく男たちの目が不気味だった。最奥のレクスターの部屋の隣に収監されているミッグスが卑猥な声を挙げた。
 レクターは窓のない部屋にいた。クラリスはFBIアカデミー訓練生の身分証明書を示し、訪問の趣旨を説明し、チルトンは喜ばなかったと話した。レクターは「心理学者チルトン博士は、博士号は持っていないのだよ」と話し始めた。チルトンは、連続殺人犯として有名なレクターを素材として論文を書き名声を得ようとしたが、レクターがチルトンの分析論文を学術誌に掲載し大恥をかいた。レクターは心理学専門誌に投稿していた著名な精神科医で、クリニックで患者の治療もしていた。彼を逮捕したのはクロフォードだった(詳細は「レッド・ドラゴン」)。
 レクターは、「クロフォードが、バッファロー・ビルの捜査協力を依頼に寄こしたのだと思った。バレンタインのプレゼントだ。ラスペイルの車を調べろ」と言った。普段は話すことのないレクターが、バーニーが驚くくらい喋った。そして黙り込んだ。立ち去るクラリスにミッグスが精液を振りかけた。レクターが詫びた。

 クラリスはクロフォードに報告した。ラスペイルは、レクターに内臓を取り出されて殺されたボルティモア・フィルの首席フルーティストで裕福な独身男だった。クロフォードは、レクターは周りの者たちを嘲弄して楽しむ癖を熟知していた。バッファロー・ビルと関係があるとは思えない。捜査官を回す余裕もない。クラリスは調査を申し出た。クロフォードは許可し、FBI捜査官の身分証明書を手配した。

 クラリスはボルティモアに戻り、ラスペイルの弁護士ヨウに会った。彼の遺産は親族間で争われていたあので所有物は倉庫に保管されていた。だが、価値の下がる車は転売されており、行方を追ったがスクラップになっていた。8年前の事だから無理はない。

 ラスペイルはクラシックカー愛好家だと分かった。クラリスは弁護士ヨウと倉庫に行った。ホコリにまみれてパッカードのリムジンがあった。首が入っている瓶を発見した。クラリスはボルティモア市警に連絡し現場の保存をした。FBIの事件ではない。市警は感謝し好意的だった。 
 
 クラリスはレクターに会いに行った。ミッグスは自殺していた。誰もがレクターがミッグスに話すのを聞いていた。そして気鬱になって死んだと。
 瓶の中の男はラスペイルの愛人だと。彼は、不良染みた若い男、船乗りが好きだったという。ラスペイルはレクターの患者だった。精神病治療の過程でラスペイルの告白を聞いていた。我慢できない嫌な男に思えてきて殺したのだった。

 寮に、アカデミーの射撃教官ブルガムが来て、ウェスト・バージニアでバッファロー・ビルの被害者が発見されたので行けと鑑識セットや銃の準備を手伝ってくれた。クロフォードの依頼だった。ブルガムは射撃の上手なクラリスのファンである。

 女の死体はランキン郡ポターの川網にかかって発見された。検屍医は町医者で、死体は葬儀場の安置所に保管されていた。クラリスが調査し、喉元にサナギを見つけた。クロフォードの指示で、クラリスはサナギをスミソニアン博物館昆虫館に持ち込んだ。若い研究者ピルチャーとロゥドンが乗って来て究明を引き受けてくれた。若いFBI美人捜査官クラリスにも興味津々のようだった。

 テネシー州メンフィス。近くの恋人の部屋にいた大学生のキャサリーン・ベイカー・マーティンは、深夜、自分のアパートに戻った。窓外では、引っ越しらしく、バンが停車していた。包帯の腕を首から下げた男が不自由そうに荷を積み込んでいた。大柄で力自慢のキャサリーンは手伝いを申し出、荷をバンの奥に運び込んだ。男は後ろからキャサリーンの頭を殴り昏倒させた。男はキャサリーンを運び去った。
 キャサリーンの母はテネシー州上院議員のルース・マーティンである。政府を巻き込んだ大事件となった。

 男はジェイムズ・ガム。マスコミではバッファロー・ビルと言われている。34才の白人で太っている。住んでいるのは、2階建ての大きな家で、地下室への階段を降りたところに使われなくなった古い井戸があり、隣に広い作業室がある。この部屋で、彼は裁縫してる。
 女性ホルモンを摂取しているが、望むようには女になれていない。 

 ラスペイルの車から発見された男の身元は不明である。クラリスはレクターに会いに行った。所長チルトンは、レクターがクラリスとは会話するのを嫉妬し、隠し録音機を付けろと迫った。マスコミの有名人であるレクターと話せるだけでも持て囃される。チルトンが望むポジションはクラリスに奪われようとしている。クラリスは録音機の着用を断った。彼女の望みは捜査を進める事だけだった。
 レクターはクラリスの個人的事情を聞きたがった。「一番、悲しかったことは?」と聞かれ「町の警察官をしていた父が死んだこと」と答えた。バッファロー・ビルの話に向けると、レクターは「彼は、キャサリーンの乳房のついたチョッキを欲しがっている」と言った。

 キャサリーンは暗い井戸の底にいた。男が顔を見せた。「母は上院議員だから、要求するだけの金は払う」と言った。自慢の胸で扇情的なポーズを試みた。彼は無反応で体を拭けとタオルを投げただけだった。絶望し座り込んだ彼女はゴミの中に爪を見つけた。バッファー・ビルだ。彼が欲しいのは自分の体の皮だけなんだと思い知った。
 
 クラリスは、クロフォードにレクターの話を報告した。ウェスト・バージニアの被害者の身元が判明していた。22才のニンバリー・ジェイン・エンバーグでデトロイトで行方不明になっていた。誘拐から殺されて皮を剥がれるまでの期間が短くなっている。急がねばキャサリーンの命はない。レクターは使えそうだ。クロフォードは、クラリスに情報を引き出すよう頼んだ。その為には、彼が望む窓のある刑務所に移すと言ってもいいと。上院議員が約束したと言えば彼は信じるだろうと。
 クラリスはレクターに会いに行った。彼が望む身の上話をした。警察官と言っても町長の用務員程度だった父が無法者から射殺され、見捨てられた一家は路頭に迷った。10才のクラリスは、母のモンタナにいる従妹の牧場に送られた。牧場は馬の屠殺をしており、怯える馬を連れて逃げ、孤児院に引き取られ育てられたと。
 クラリスはキャサリーン誘拐犯探しの協力を頼み、うまくいけば上院議員が待遇の改善を約束したと言った。バッファーロービルの捜査ファイルを渡した。
 レクターは、バッファーロー・ビルはマスコミが騒いでいるような猟奇殺人者ではない。むしろ、ビリーと呼ぼうと。ビリーは性転換願望者で性転換の申し込みをしているだろうと話した。米国内で性転換手術を引き受ける病院はジョン・ホプキンズ大学など3か所しかなく審査は厳しい。犯罪歴、社会的問題がなく真の性転換願望者でなければ認められない。不合格となった申込者を探すといいと。

 レクターは、元患者ラスペイルから愛人ジェイムズ・ガムの話を聞かされていた。親しくなった若い船乗りが消えた。ジェイムズがいない時、冷蔵庫を開けると、奥に船乗りの首が入れられた壜があった。ジェイムズは、10才の時、祖父母を殺害して精神病院に隔離されていた。そこで裁縫を学び、20才前に病院を出て骨董屋で働いた。店では、アジアから蝶を仕入れアクセサリーを作っていた。店を首になった時、アジアからの荷を持ち帰った。女性の皮膚に執着する異常な男。女性の皮膚を身に着けたいあまり、執着する女性は大柄だった。大男のジェイムズには大きな皮が必要だったのだ。
 レクターの記憶は鮮明だった。問題は、クラリスにどうして彼を探させるかだった。

 チルトンは隠しマイクを仕掛けていた。クラリスとレクターの会話を聞き、マーティン上院議員に電話した。案の定、上院議員は何も知らなかった。彼女にレクターを売り込んだ。上院議員は藁をも掴む心境である。チルトンの話を受け入れた。レクターにクラリスの話は嘘だと告げ、チルトンを通じてだけ話し、犯人の所在を言うならテネシーの刑務所に移すと持ち掛けた。
 レクターは、「彼の名はビリー。続きはテネシーで上院議員に話す」と答えた。チルトンは喜んで上院議員に電話した。

 バーニーが拘束服を着て車いすに乗ったレクターを飛行場に送った。チルトンが付き添いテネシー州警の係官がメンフィスに護送する。レクターの取り扱いは難しい。バーニーは、同行してテネシー州看守に説明すると申し出たが、チルトンは自分一人で大丈夫だと言って帰らせた。

 クロフォードはFBIボルティモア支局に滞在していた。クラリスの報告で、ジョン・ホプキンス大学等を説得し性転換申込者の報告を求めたが、患者の秘密を守ろうとする医者たちの抵抗は大きかった。一刻を争うキャサリンの危機的状況を訴えた。
 FBI本部から、チルトンがマーティン上院議員と取引し、レクターはテネシーに移されることになったと連絡があった。チルトンは何も分かっていない。レクターは彼らを弄んでいる。
 クラリスが来た。レクター移送の話を聞いて怒り狂った。メンフィスに行き、レクターに会い調査を継続したいと申し出た。クラリスはアカデミーの学生である。これ以上、欠席すれば卒業できなくなる。クラリスの覚悟をクロフォードは受け入れた。レクターは彼女になら真実を話すかもしれない。クロフォードは上院議員に捜査官としてクラリスを送ると電話した。レクターを軽々しく信用するなとも。上院議員は誘拐犯を探し出せないFBIを信頼出来なくなっていた。

 クラリスは、バーニーからレクターが部屋に残した本や絵などを預かりメンフィスに飛んだ。

 テネシー州警捜査官とチルトンに付き添われてメンフィスの飛行場に着いたレクターは、用意されていた空港の会議室で上院議員と会った。彼女は法務省の役人ポール・クレンドラーを同行させていた。レクターは、誘拐犯バッファロー・ビル、BBは,ビリー・ルービン。レクターが開業していた頃、ラスペイル宅に住んでおり、患者だったと話した。州警捜査官バックマンはFBIにも協力を求めビリー・ルービンを手配した。

 拘束服のレクターは救急車で留置場に護送された。州警は、州刑務所の経験豊かな看守ベンブリーとボイルに担当させた。彼らには手錠、口枷を付けられたレクターの警護は行き過ぎのように思えた。州政府庁舎5階の留置場に着いた、5階には独房のレクターと二人の看守しかいない。独房では拘束服は脱がせるが手錠は外さない。

 ジェイムズ・ガムは地下室に行った。暗視鏡をつけて奥の部屋で観察した。彼が育てたサナギたちが変態しようとしている。愛しの蝶。彼が愛するのは、他にはプードルしかいない。
 井戸を覗いた。キャサリーンがうごめいている。彼女には水だけで、食事は与えていない。皮膚は柔らかくなっている。使える皮が取れるのには4日から7日はかかる。ジッパーをどこに付けるか決めていない。彼は裁縫師。デザインを考えるのも楽しみの一つだ。

 メンフィスに着いたクラリスは、誘拐現場のキャサリーンのアパートに行った。現場検証は終わっており、警備の警官はFBI捜査官を部屋に入れた。見落とした物証があるとも思えなかったが、彼女の寝室に行った。宝石箱があり、二重底の下に写真が隠されていた。裸のキャサリーンと恋人が写っていた。クラリスはバッグに入れた。
 後ろから声がした。「宝石箱の中のモノを返しなさい」と。クラリスは、写真を母親に見せるのは躊躇した。捜査上の秘密だと断った。上院議員は、同行しているクレンドラーに指示した。彼は、クラリスの説明を聞いて母親に見せない選択をしたが、クラリスを査問すると約束した。狡猾でなければ法務省の高官にはなれない。

 クラリスは州政府庁舎に行き、マスコミやチルトンの目を盗んで5階の留置場に入った。警官たちはFBI捜査官を通してくれた。
 レクターは、クラリスの「上院議員の約束」のウソを咎めたが気にしている風はなかった。レクターは、クラリスが牧場から逃げた訳を尋ねた。クラリスは話した。10才のクラリスは、年老いた雌馬のハナを可愛がっていた。ハナは目が見えなくなっており、クラリスを頼っていた。ある日の朝、屠殺される12匹の子羊たちが鳴いており、ハナが怯えきっていた。クラリスは、ハナを連れて逃げ、見つかった。だが、叔母はクラリスが、ハナを連れて孤児院に入ることを許してくれた。子羊たちの哀しい鳴き声は耳に残っており、今でも聞こえる。クラリスは学校に行くため孤児院を出たが、ハナは孤児院に残ったと。
 レクターは、「バッファロー・ビルを捕まえれば、子羊たちの声は聞こえなくなるだろうか?」と聞いた。「そうかも知れない」と答えるとレクターは満足したようだった。

 怒り狂ったチルトンが来た。看守ベンブリーはチルトンには反感を感じたが、クラリスに帰るように指示せざるを得なかった。クラリスはバーニーから預かった品を渡し、レクターはバッファロー・ビルの捜査ファイルを返してくれた。最後に「子羊たちの声が聞こえなくなったら教えてくれ」と言った。

 その日の夕食時、レクターは、トレーを持って房に入って来たボイルを殺し、入り口の受付から駆け付けたベンブリーを襲って殺した。隠していたピンで手錠を外し、看守の銃とナイフを奪い、制服も奪った。

 留置場から数発の銃声がした。警官たちは様子を見ながら5階に向かった。エレベーターは途中で止まっている。5階では血まみれになり顔を切り刻まれたボイルが房内で死んでおり、廊下に血まみれのベンブリーが倒れていた。息はあったので、救急車がベンブリーを運んで行った。レクターの姿はなかった。
 エレベーターの天井上に蹲っている死体が発見され回収された。ベンブリーだった。州警、FBIはレクター追跡の大捜査網を敷き、マスコミは大騒ぎとなった。

 救急車の中で起き上がったレクターは銃で救急車を空港に向かわせた。車は地下駐車場の奥に捨てられていた。

 クラリスは、アーリントンのクロフォードの自宅に向かっていた。カーラジオでレクター逃亡のニュースを聞いた。  
 クロフォードは休暇を命令されていた。法務省、FBIで特別捜査チームが編成され、指揮官はクレンドラーだと言う。彼はアカデミーにクラリスの適正審査を申し立てた。審査で不適正とされればFBIへの道は閉ざされる。クロフォードは、クラリスに、すぐにアカデミーに戻るように言った。彼女は成績優秀で評判もいい。アカデミーにいさえすれば問題はないと。

 スミソニアンの昆虫研究者ピルチャーから大発見だと連絡があった。彼に渡した被害者の体から発見されたサナギは”ドクロメンガタスズメ”というアジア種の珍しい蝶で北米には棲息していない。飼育されたサナギだと。ピ゚ルチャーは、クラリス恋しさで必死に追い求めたのだった。

 レクターは、セントルイスのマーカス・ホテルにいた。顔には包帯を巻きつけている。ホテルの前には、整形外科で有名なセントルイス市立病院がある。全米から重症患者が集まる病院の門前のホテルは異様な客も怪しまれることはない。レクターは、自室で自分で治療していた。

 留置場を調べたテネシー州警は化学物質の分子記号を記したメモを発見した。物質は茶色の染髪剤に使うビルルビンで、ビリー・ルビンは冗談で、チルトンへの当てつけだった。ビリー・ルビン探しは中止された。

 子羊たちの悲鳴が聞こえた。悪夢で目覚めたクラリスは起き上がって資料に目をやった。レクターから戻って来たファイルの地図に「犯罪地の散らばり?」とメモされていた。「ありがとう」とも。第1の被害者の死体は、後の被害者の死体より後で発見された。被害者の所在地は中部各州にまたがっており、犯人は居住地を隠そうとしているようにも見える。第1の被害者が最初に問題になっては不都合な事情があったようだ。
 クロフォードに代わって捜査指揮をしているバローズに被害者を調べさせてくれと頼んだ。彼は、クロフォードの妻ベラが死んだと教えてくれた。彼を煩わせないようにと言いながら、第1の被害者ビンメルはオハイオ州ベルヴェディアだと。

 クラリスは、クロフォード宅に行き、ベラを悔み、捜査を続けさせてと言った。レクターのメモを話し、まずはビンメルを調べたいと。アカデミーを出るのが遅れるのは承知だと。

 クラリスは、オハイオのフレデリカ・ビンメルの実家に行った。川岸に並んで建つ一軒だった。父親がいて彼女の部屋を見せてくれた。陰気な部屋だった。フレデリカは大柄で、不細工な女だった。犯人は彼女の知人かも知れない。友人は多くはなさそうだった。父親は彼女のハイスクール時代の友人ハブカを教えてくれた。彼は再婚し、過去を忘れようとしていた。

 ジェイムズ・ガムは地下に降りた。4日目の朝で、皮を剥ぐ準備が整っていた。皮を傷つけてはいけない。銃やナイフを使うのは論外。最初と2番目の女は首を絞めた。暴れなければ、そう悪くはない。
 井戸にプードルが落ちていた。彼女が、おびき寄せて確保したのだった。キャサリーンは、ジェイムズに電話を持ってくるように要求した。予想外の出来事だ。

 クロフォードは出勤していた。家にいればベラの事を考える。事務所の方がまし。FBI副長官のジョンが葬儀の予定を聞きに来た。捜査の状況を説明し意見を聞いた。彼は捜査チームのFBI側の責任者を務めている。クロフォードの盟友だった。
 ジョン・ホプキンズ大学から電話があり、クロフォードの問い合わせに該当する人物が一人いたと言ってきた。性転換手術の申請者名は、ジョン・グラントだという。3年前で、大学は申請を断っていた。
 申請書の住所などから氏名を割り出した。ジェイムズ・ガム。彼は傷害事件で指名手配中だった。

 フレデリカ・ビンメルの部屋にいたクラリスに、バローズから連絡があった。クロフォードが犯人名を割り出し、彼が所在していると思われるシカゴ近郊のカリュメット市にSWATチームが向かっていると。ジェイムズは、12才の時、いなくなった父母のに代わって彼を養育していた祖父母を殺した。6年間精神病院にいたが、病院が閉鎖され出されたと。カリュメットに住んでいたと分かっている。
 2年前、税関が、骨董店「ミスター・ハイド」気付けジョン・グラント宛のサナギの入ったスーツケーズを押収していた。同一人物だと間違いはない。

 フレデリカはジェイムズ・ガムと繋がりがあるかもしれない。クラリスは、事務員をしているハブカに話を聞きに行った。二人はハイスクール時代、洋装店「リチャード・ファッションズ」でアルバイトをしていた。裁縫が得意なフレデリカは気に入られて親しく出入りしていたと。店は閉店しており、関係者は亡くなっていた。マネージャーだったミズ・リップマンも亡くなっているが家は残っていると言う。フレデリカが訪ねていたので、彼女を知っている遺族がいるかもしれないと。

 ジェイムズ・ガムは、プードルを救うためキャサリンを撃つことに決めた。頭は犠牲にするがやむをえない。仕事を始めよう。地下の仕事部屋の明りを点けた。
 その時、ドアベルが鳴った。FBI捜査官だった。「ミズ・リップマンの遺族ですか?」と聞かれた。

 クラリスが尋ねると、対応してくれたジャック・ゴードンと名乗った男は「ミズ・リップマンの遺族はいない。彼女の弁護士の名刺が残っていると思う」と言って部屋に入り、机の引き出しを開けた。彼の後ろから”ドクロメンガタスズメ”が飛び立った。クラリスは、銃を出し「動くな!」と叫んだが、男は咄嗟に地下室に逃げた。
 彼を追って地下室に行くと井戸から女の声、キャサリーンだ。奥の部屋は明りが点いているが周辺は暗い。銃の撃鉄の音がし、クラリスは撃った。撃ち合いになった。静かになったのでクラリスはスイッチを探して明りを点けた。暗視鏡を付けた男が倒れて死んでいた。
 クラリスは、警察と救急隊に電話した。最初に来たのはテレビ局だった。

 ワシントン・ナショナル空港では寮で同室の親友アーディリアが迎えてくれた。クロフォードは車で待っていた。審査会は取りやめられていた。休んで受けられなかったテストは再実施してくれることになった。

 事件の真相も明らかになって行った。ジェイムズ・ガムは「リチャード・ファッションズ」の仕事もしており、ミズ・リップマンのお気に入りだった。縁者のいない彼女は遺産をジェイムズ・ガムに相続させた。出入りしていたフレデリカはジェイムズに恋心を抱いていた。大柄だが陰気で目だたないフレデリカは、積極的にアプローチした形跡はない。ジェイムズが気に入っていたのは皮だった。フレデリカの、たどたどしいラブレターが部屋から見つかり、読む者の涙を誘った。

 ラスペイルの遺族が、彼の音声テープを保管していて押収された。ジェイムズ・ガムはミズ・リップマンやフレデリカを語っていた。レクターは、最初からバッファロー・ビルの正体を知っていた。レクターは楽しんでいただけだった。

 見捨てられたチルトンはレクターとクラリスの隠し撮りテープを赤新聞に売った。新聞は「ドラキュラの花嫁」シリーズとして、精神異常の殺人鬼レクターの心を掴んだFBI美人捜査官を面白おかしく連載した。

 マーカス・ホテルにいるレクターは上機嫌だった。シリコンや注射器を薬局で手に入れて自分で施術している顔の整形も順調に進んでいる。逮捕される前、逃亡の準備にサスケハナ川岸のコテッジに金と書類を隠していた。ビザは後進する必要があったが。
 バーマーに金を添えて礼状を書いた。チルトンへの手紙には、会いに行くと書いておいた。クラリスに、「子羊の悲鳴は聞こえなくなっただろうか? 新聞に3行広告を掲載して教えて欲しい。君を探す積りはない。望むらくは、君にも私を探してほしくはない。窓から星を見ている。君も見ているかもしれない。それで満足だ」と書いた。手紙はロンドンの回送サービスを通じて送った。

 クラリスは、ピルチャーから誘われて彼の家の別荘に行った。アーディリアも一緒である。暖炉の火が快かった。いつしか眠り込んでいた。子羊の悲鳴は聞こえなかった。