ずっとヴィーガン暮らし

薬草学の母ヒルデガルトに憧れて植物療法を学んでいます

皆と同じ物を、残さず食べなきゃと、とらわれていた日々

お題 私がとらわれていた「しなきゃ」

 

幼い頃から、なぜか動物性食品が苦手でした。お肉は絶対無理で、お魚は生臭く苦手、卵はよく焼けば何とか食べられたけど、牛乳は飲む度にお腹が痛くなり、、。

 

そんなですから、母親からはいつも怒られていました。

「好き嫌いばっかりして」
「ご馳走を残すなんてバチが当たるよ」

 

今でも忘れられない記憶は、小学校に入学して初めての給食の日のこと。クラスで一人だけ牛乳がどうしても飲めなくて、泣いてしまったのです。みんながこっちを見ているので、恥ずかしくて恥ずかしくて。

 

幸い担任が優しいおばあちゃん先生だったので、怒られることもなく「少しずつ飲めるようになろうね」と言われました。次の日は無理して半分ぐらい飲みました。先生に「よくがんばったね」と褒められて、誇らしい気持ちになったのを覚えています。

 

成長するにつれ、家では怒られない程度に残し、学校では給食をテキトーに食べるなど、自分なりに動物性食品を避けるワザを身に付けていましたが、自分が「菜食」だという認識は全くありませんでした。

 

ところが、20代でロンドンに留学し「ベジタリアン天国」のような生活を体験したのです。当時はまだヴィーガンという言葉はありませんでしたが、街中にベジタリアンレストランがたくさんあり、ベジタリアンの人も普通にたくさんいました。

 

オーブンで焼いたベジローフやベジグラタン、ベジスイーツの美味しいことといったら。今まで食べたこともなかった凝った野菜料理は、私の味覚にぴったりと合い、こんなに美味しい食の世界があったのかと驚きました。

 

「私は偏食ではなくベジタリアンだったのだ!」と気づいて、生まれて初めて肯定されたような幸福感に包まれました。

それも束の間、帰国して社会生活を始めたら、菜食で生きることの難しさを日々経験することになるのです。例を挙げたらきりがありませんが、ある時は無理して「牛タンを呑み込み」またある時は「生ガキを呑み込み」、苦手な動物性食品を勢いで呑み込んでしまう、そんな生活です。

 

仕事中に、好意で差し入れを持って来て配る人がいます。自分で揚げたとんかつで作った「カツサンド」や、有名店の「ジャンボシュークリーム」等。どうして断れましょうか。皆がおいしい、おいしいと言いながら食べているので、気がついたら自分も「おいしいですね」と作り笑いをしながら、食べていました。

 

家に帰るとそんな自分に嫌気がさして、自己嫌悪になるばかり。いつになったら自分に正直に社会生活が送れるようになれるのか。このままではいけない、菜食で生きたっていいじゃないか、別に悪いことをしているわけじゃないんだから。

 

少しずつ、食事の席で「お肉は苦手なんです」とか「お魚もあんまり」「乳製品はどうも合わなくて」とやんわり言えるようになりましたが、間違っても「菜食」とは言わないように気をつけていました。言った途端に今度は大変な質問攻めにあうことがわかったからです。

 

「タンパク質はどうしてるの?」
「家族はどうしてるの?」
「宗教か何か?」
「禁欲主義?」

 

少しずつ自己開示できるようにはなったけど、逆にお肉や乳製品が大好きな人たちの中に自分が一人交じることで、周りに気を遣わせてしまうことが申し訳なくなり、次第に孤立するようになりました。本来ならば食事の場を通して、交流が深まったりするのでしょうが、それができないので仕方ありません。

 

そうこうしている間に時代の方が大きく変わり、環境問題からヴィーガニズムの考え方がクローズアップされるようになりました。世界中に広がったヴィーガンムーブメントが背中を押して、私にも変化が訪れました。

 

菜食歴がかなり長かったにもかかわらず、それをずっと言えずに「隠れヴィーガン」だった私が、2020年1月に「ずっとヴィーガン暮らし」という、このブログを始めたのです。

 

始めは自分の菜食生活を日記のように綴ろうと思っていたのですが、ネタ探しにいろいろ学んでいるうちに、トルストイが50歳を過ぎてから肉食を止めたことを知ったり、宮沢賢治の「ビヂテリアン大祭」を再読して感動したりと、確実に自分の中で菜食の世界観が広がっていくのを感じるようになりました。

 

また、実生活では菜食の知り合いは未だに一人もいませんが、世界にはヴィーガンの人が大勢いることを知り、「ヴィーガンになって友達を失った」「人が心を込めて作った非ヴィーガン料理を断れない」等、悩みは世界共通なんだなと驚いています。

 

世の中にはいろいろなマイノリティーが存在し、私はたまたま食の面ではマイノリティーだけど、別の面ではマジョリティーだったりもします。シュークリームの差し入れを前にして「食べられない人がいるという発想はないのだろうな」と残念に感じたけど、自分も別の場面では同様に、マジョリティーの常識で行動をして誰かを悲しませているかもしれません。

 

だから「皆と同じように」「常識に合わせて」「一般的な価値観」にとらわれて、「しなきゃ」と思う必要はない、みんなが同じなんて有り得ないのだから。少しずつそう思うようになりました。

 

土用の丑の日に鰻を食べなくたっていいじゃない。クリスマスにケーキを食べなくたっていいじゃない。好きな物を好きな時に自由に食べたっていいじゃない。

 

思えば小学校で給食の牛乳を泣きながら飲んだ日から、「皆と同じ物を、残さず食べなきゃ」という思いにずっととらわれて来たような気がします。ずいぶん時間がかかったけど、今は少し楽になったと感じています。

 

 

 

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