(今回は、十字架をとおして啓示されるイエスの本質、についてふれたいと思います)
『彼らは(=ユダヤ人指導者たちは)、イエスが父について話しておられたことを(=神についていつわりなく話していたことを)悟らなかった。そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子(=キリスト)を上げてしまった後はじめて(=十字架にかけたときにはじめて)、わたしがそういう者であること(=ギリシャ語で “エゴー エイミ”。これは子なる神としての神性宣言です。“わたしはあるという者である” ということを)、また、わたしは自分からは何もせず(=完全に神にしたがっていて)、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう(=みとめるみとめないはべつにして、イエスが身をとおしてしめしていたご性質(=本質)に気づかされるだろう)。わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない(=たとえば人間は拒否したり、去ったりしていくことがあるが、神はイエスからお離れになることがありません。イエスの十字架の死後も、よみがえらせて天にあげられました)」。これらのことを語られたところ、多くの人々(=ユダヤ人)がイエスを信じた』
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(ユダヤ人指導者たちがイエスをとらえ、最終的にはローマ兵によって十字架にかけられます。彼らはこの光景を目の当たりにしたとき、イエスをとおしてなされていた神からの啓示(けいじ)に、気づかされることになります。しかしこれらに気づいたからといって、それで悔いあらためるかというと、かならずしもそうではないところに罪の根深さがあります。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて、罪を赦(ゆる)された者となりますように。イエス・キリストのお名前をとおしてお祈りいたします)