コリントの手紙第1 解説
2022.12.2 まとめ
○
十字架のことば
(1コリント1:18)
「十字架のことばは,
滅びに至る人々には愚かであっても,
救いを受ける私たちには,
神の力です。」
わたしたちは,
自分自身の頭の中で神を求めても,
神はわかりません。
しかし,イエス・キリストを求め,
イエス・キリストを受け入れるなら,
神がわかるようになります。
イエス・キリストは聖書に書かれています。
特に新約聖書の福音書に,
鮮やかに描かれています。
「十字架のことば」とは,
イエス・キリストが
私たちの罪の身代わりとして,
十字架にかかったことです。
信じる者の罪が赦され,
力をけることです。
○
知恵,義,聖,贖い
(1コリント1:30)
「あなたがたは,
神によってキリスト・イエスのうちに
あるのです。
キリストは,
私たちにとって,
神の知恵となり,
また,義と聖めと,
贖いとになられました。」
パウロがコリントの教会の信徒に宛てた
手紙の一節です。
コリントの教会における,
あらゆる問題において,
また信じる者の生活の
あらゆる領域において,
イエス・キリストは,
解決を与えてくださいます。
イエス・キリスト御自身が
適切で十分な答えとなっています。
イエス・キリストご自身が,
イエス・キリストを
信じるわたしたちの命となり,
すべてとなるからです。
イエス・キリストご自身が,
知恵,義,聖め,贖いだからです。
○
霊は知っている,聖霊による啓示
(1コリント2:10)
「神はこれを,
御霊によって私たちに啓示されたのです。
御霊はすべてのことを探り,
神の深みにまで及ばれるからです。」
御霊は,
たしたちの心の底にまで来てくださり,
神のすべての真理を知らせてくださいます。
○
わたしたちは,神の建物です。
(1コリント3:9)
「私たちは神の協力者であり,
あなたがたは神の畑,神の建物です。」
土台は,イエス・キリスト御自身です。
(1コリント3:10)
「与えられた神の恵みによって,
私は賢い建築家のように,
土台を据えました。
そして,
ほかの人がその上に家を建てています。
しかし,どのように建てるかについては
それぞれが注意しなければなりません。」
それ以外は崩れて行きます。
そして,わたしたちは神の神殿です。
わたしたちの内に
神の霊が住んでいるからです。
(1コリント3:15)
「もしだれかの建てた建物が焼ければ,
その人は損害を受けますが,
自分自身は,
火の中をくぐるようにして助かります。」
☆彡
(1コリント3:9-11)
「私たちは神の協力者であり,
あなたがたは神の畑,神の建物です。
与えられた神の恵みによって,
私は賢い建築家のように,
土台を据えました。
そして,
ほかの人がその上に家を建てています。
しかし,どのように建てるかについては
それぞれが注意しなければなりません。
というのは,だれも,
すでに据えられている土台のほかに,
ほかの物を据えることはできないからです。
その土台とはイエス・キリストです。」
○
うちに宿る聖霊
(1コリント3:16)
「あなたがたは神の神殿であり,
神の御霊が
あなたがたに宿っておられることを
知らないのですか。」
聖霊は,
イエス・キリストを信じる者の心に宿り,
いつまでも共にいます。
○
主の再臨と審判
(1コリント4:5)
「あなたがたは,
主が来られるまでは,
何についても,
先走ったさばきをしてはいけません。
主は,やみの中に隠れた事も明るみに出し,
心の中のはかりごとも明らかにされます。
そのとき,
神から各人に対する称賛が届くのです。」
この世の終わりに
キリストが再び天から地上に来られます。
キリストは栄光のうちに
天の雲に乗って来られます。
そしてさばきの座に着いて,
すべての者をさばき,
救いを完成します。
○
キリストは過ぎ越しの小羊
(1コリント5:7)
「新しい粉のかたまりのままでいるために,
古いパン種を取り除きなさい。
あなたがたはパン種のないものだからです。
私たちの過越の小羊キリストが,
すでにほふられたからです。」
イスラエルの民を救うために
小羊の血が犠牲として用いられたように,
イエスの死は
人々の罪と死から救う備えです。
☆彡
過越の小羊キリスト
(1コリント5:7,8)
「新しい粉のかたまりのままでいるために,
古いパン種を取り除きなさい。
あなたがたはパン種のないものだからです。
私たちの過越の小羊キリストが,
すでにほふられたからです。
ですから,
私たちは,古いパン種を用いたり,
悪意と不正のパン種を用いたりしないで,
パン種のはいらない,純粋で真実なパンで,
祭りをしようではありませんか。」
○
わたしたちは,聖霊の宮
(1コリント6:19,20)
「あなたがたのからだは,
あなたがたのうちに住まれる,
神から受けた聖霊の宮であり,
あなたがたは,
もはや自分自身のものではないことを,
知らないのですか。
あなたがたは,
代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって,
神の栄光を現わしなさい。」
からだは聖霊の宮です。
自分のからだを大切にしましょう。
イエス・キリストを信じる者の
体の内に聖霊が宿るからです。
タバコを吸っている人は,
タバコをやめると
よいのではないでしょうか。
○
自由人
(1コリント7:22,23)
「奴隷も,主にあって召された者は,
主に属する自由人であり,
同じように,自由人も,
召された者は
キリストに属する奴隷だからです。
あなたがたは,
代価をもって買われたのです。
人間の奴隷となってはいけません。」
この代価と言う言葉は,
「身代金」という言葉です。
ですから,他の訳ですと,
「あなたがたは,
身代金を払って買い取られたのです。
人の奴隷となってはいけません。」
となります。
○
唯一の神
(1コリント8:6)
「私たちには,
父なる唯一の神がおられるだけで,
すべてのものはこの神から出ており,
私たちもこの神のために
存在しているのです。
また,唯一の主なるイエス・キリストが
おられるだけで,
すべてのものはこの主によって存在し,
私たちもこの主によって存在するのです。」
父なる神は,唯一の神であり,
天地を造られた方です。
イエス・キリストは父なる神と共に,
天地を造られました。
私たちは,このイエス・キリストにおいて,
存在しています。
☆彡
唯一の神
(1コリント8:4-6)
そういうわけで,
偶像にささげた肉を
食べることについてですが,
私たちは,
世の偶像の神は
実際にはないものであること,
また,唯一の神以外には
神は存在しないことを知っています。
なるほど,多くの神や,
多くの主があるので,
神々と呼ばれるものならば,
天にも地にもありますが,
私たちには,
父なる唯一の神がおられるだけで,
すべてのものはこの神から出ており,
私たちもこの神のために
存在しているのです。
また,唯一の主なるイエス・キリストが
おられるだけで,
すべてのものはこの主によって存在し,
私たちもこの主によって存在するのです。
○
主への服従
(1コリント9:27)
「私は自分のからだを
打ちたたいて従わせます。
それは,
私がほかの人に宣べ伝えておきながら,
自分自身が
失格者になるようなことのないためです。」
パウロの信仰です。
主の服従のために生きることを
勧めています。
☆彡
(1コリント9:24-27)
「競技場で走る人たちは,みな走っても,
賞を受けるのはただひとりだ,
ということを知っているでしょう。
ですから,あなたがたも,
賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は,
あらゆることについて自制します。
彼らは朽ちる冠を
受けるためにそうするのですが,
私たちは朽ちない冠を
受けるためにそうするのです。
ですから,
私は決勝点がどこかわからないような
走り方はしていません。
空を打つような拳闘もしてはいません。
私は自分のからだを
打ちたたいて従わせます。
それは,私がほかの人に
宣べ伝えておきながら,
自分自身が失格者になるようなことの
ないためです。」
○
霊的な岩
(1コリント10:1-4)
「兄弟たち。
私はあなたがたにぜひ
次のことを知ってもらいたいのです。
私たちの父祖たちはみな,
雲の下におり,みな海を通って行きました。
そしてみな,雲と海とで,
モーセにつくバプテスマを受け,
みな同じ御霊の食べ物を食べ,
みな同じ御霊の飲み物を飲みました。
というのは,
彼らについて来た御霊の岩から
飲んだからです。
その岩とはキリストです。」
「私たちの父祖たち」は,
教会がイスラエル民族を継ぐ
新しい神の民であることを示しています。
「雲の下におり」は,
出13:21には合わないが,
詩105:39では,
雲がイスラエルの「覆い」
(口語訳,新共同訳)とされています。
雲は主の臨在のしるしでした。
「雲と海とで,
モーセにつくバプテスマを受け」
とは,バプテスマはイエス・キリストの
バプテスマの型となっています。
「彼らについて来た御霊の岩」は,
聖書をもとにした
ユダヤの物語を背景とします。
その物語では,
泉を出したメリバの岩(出17:1‐7)が
イスラエルと旅路を共にして
水を与え続けました。
○
聖餐式
(1コリント11:23-29)
「私は主から受けたことを,
あなたがたに伝えたのです。
すなわち,
主イエスは,渡される夜,パンを取り,
感謝をささげて後,それを裂き,
こう言われました。
『これはあなたがたのための,
わたしのからだです。
わたしを覚えて,これを行いなさい。』
夕食の後,杯をも同じようにして言われました。
『この杯は,
わたしの血による新しい契約です。
これを飲むたびに,
わたしを覚えて,これを行いなさい。』
ですから,あなたがたは,このパンを食べ,
この杯を飲むたびに,主が来られるまで,
主の死を告げ知らせるのです。』」
主の晩餐の制定を書いています。
イエスの最後の晩餐を受けたものです。
イエスの十字架の出来事は一度です。
聖餐式によって,
くりかえし覚えていなければなりません。
(マタイ26:26-29)
「彼らが食事をしているとき,
イエスはパンを取り,
祝福して後,これを裂き,
弟子たちに与えて言われた。
『取って食べなさい。
これはわたしのからだです。』
また杯を取り,感謝をささげて後,
こう言って彼らにお与えになった。
『みな,この杯から飲みなさい。
これは,わたしの契約の血です。
罪を赦すために
多くの人のために流されるものです。
ただ,言っておきます。
わたしの父の御国で,
あなたがたと新しく飲むその日までは,
わたしはもはや,
ぶどうの実で造った物を
飲むことはありません。』」
○
聖霊の賜物
(1コリント12:8ー10)
「ある人には御霊によって
知恵のことばが与えられ,
ほかの人には同じ御霊にかなう
知識のことばが与えられ,
またある人には
同じ御霊による信仰が与えられ,
ある人には同一の御霊によって,
いやしの賜物が与えられ,
ある人には奇蹟を行なう力,
ある人には預言,
ある人には霊を見分ける力,
ある人には異言,
ある人には異言を解き明かす力が
与えられています。」
イエス・キリストを信じる者には,
愛を中心とした御霊の実が
与えられると共に
神のために働くために御霊の賜物が
与えられています。
「御霊の賜物」(12:4)とは,
信者が教会で奉仕するために
必要なものを,
神が聖霊によって
恵みとしてお与えになったものです。
☆
この手紙が書かれた時代は、
水のバプテスマを受けると,
異言の伴う聖霊のバプテスマを
受けちました。
そして,聖霊に満たされ,
聖霊に導かれ,
神の臨在を感じていました。
その人たちには,
御霊の実が与えられ,
御霊の賜物が与えられました。
御霊の賜物は,
教会での奉仕に用いられました。
御霊の賜物を用いるには,
御霊の実を共に用い
特に愛が必要です。
○
最も大いなるものは,愛
(1コリント13:4-8)
「愛は寛容であり,愛は情深い。
また,ねたむことをしない。
愛は高ぶらない,誇らない,
不作法をしない,自分の利益を求めない,
いらだたない,恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして,すべてを忍び,すべてを信じ,
すべてを望み,すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。
愛がどのようものかを,
具体的に宣べています。
最も大いなるものが,
愛であるといいます。
○
(1コリント13:13)
「このように,
いつまでも存続するものは,
信仰と希望と愛と,
この三つである。
このうちで最も大いなるものは,
愛である。」
パウロは1コリント12章で,
御霊(聖霊)の賜物について述べました。
そして,その賜物を生かす道は,
愛です。
イエス・キリストを信じる者に,
聖霊が与えられます。
聖霊は信じる者の心のうちに入ります。
聖霊は,御霊の賜物と
御霊の実をあたえます。
その中の最も大いなものが,愛です。
また,愛は聖霊の実であるといいます。
○
御霊の実
(ガラテヤ5:22,23)
「御霊の実は,
愛,喜び,平安,
寛容,親切,善意,
誠実, 柔和,自制です。」
御霊の賜物は,
教会での奉仕でもいいられます。
御霊の実は,イエスの性格であり,
私たちにも性格として与えられます。
○
預言
(1コリント14:1)
「愛を追い求めなさい。
また,御霊の賜物,
特に預言することを
熱心に求めなさい。」
預言は,聖霊による神の啓示です。
預言は,
すべてのキリスト者が求めるべき
聖霊の賜物の一つです。
(1コリント14:1,5,39)
預言は常に人が器として用いられます。
啓示された事柄は,
キリスト者の心に神の働きとして
与えられます。
そして,
預言はイエス・キリストを信じる者が
すべて語ることが出来る,
思考力を働かせた秩序だったことばです。
(1コリント14:31)
「あなたがたは,
みながかわるがわる
預言できるのであって,
すべての人が学ぶことができ,
すべての人が
勧めを受けることができるのです。」
旧約時代には,
一般に預言者と言われる特定の人だけが
預言をしました。
新約時代には,
預言の霊はすべての神を信じる人に
約束されています。
○
愛を追い求めなさい
(1コリント14:1-5)
「愛を追い求めなさい。
また,御霊の賜物,
特に預言することを熱心に求めなさい。
異言を話す者は,
人に話すのではなく,神に話すのです。
というのは,だれも聞いていないのに,
自分の霊で奥義を話すからです。
ところが預言する者は,
徳を高め,勧めをなし,
慰めを与えるために,
人に向かって話します。
異言を話す者は自分の徳を高めますが,
預言する者は教会の徳を高めます。
私はあなたがたがみな異言を
話すことを望んでいますが,
それよりも,
あなたがたが預言することを望みます。
もし異言を話す者が
その解き明かしをして教会の徳を
高めるのでないなら,
異言を語る者よりも,
預言する者のほうがまさっています。」
神の業は,今の時代では,
人をとおして現れます。
神を信じる者はすべて預言を語れますが,
預言の賜物を与えられた人は
特別な預言を語れるようです。
いずれにしろ,主のため,
人のために働きたいものです。
○
預言
(1コリント14:1)
「預言することを熱心に求めなさい。」
わたしたちは問題にあたったとき,
どうしたらよいでしょうか。
つぶやかないで,祈り,
神からの答えを待つことです。
わたしたちが祈り,神に尋ねるなら,
神からの答えとして,
聖書のことばが与えられます。
それは預言に通じます。
次のパウロの言葉から,
多くのことを学ぶことが出来ます。
☆彡
預言を熱心に求める
(1コリント14:1-4)
「愛を追い求めなさい。
また,御霊の賜物,
特に預言することを熱心に求めなさい。
異言を話す者は,
人に話すのではなく,
神に話すのです。
というのは,
だれも聞いていないのに,
自分の霊で奥義を話すからです。
ところが預言する者は,
徳を高め,
勧めをなし,
慰めを与えるために,
人に向かって話します。
異言を話す者は
自分の徳を高めますが,
預言する者は
教会の徳を高めます。」
○
聖霊は,わたしたちに愛を与えます。
愛は,隣人に折にかなった
聖書の言葉を与えます。
○
福音の中心
(1コリント15:3-6)
「わたしが最も大事なこととして
あなたがたに伝えたのは,
わたし自身も受けたことであった。
すなわちキリストが,
聖書に書いてあるとおり,
わたしたちの罪のために死んだこと,
そして葬られたこと,
聖書に書いてあるとおり,
三日目によみがえったこと,
ケパに現れ,
次に,十二人に現れたことである。
そののち,五百人以上の兄弟たちに,
同時に現れた。
その中にはすでに眠った者たちもいるが,
大多数はいまなお生存している。」
福音の中心は,イエス・キリストが
わたしたちの罪の身代わりとなって死に,
三日目に復活したことです。
○
復活の体
(1コリント15:49)
「私たちは土で造られた者のかたちを
持っていたように,
天上のかたちをも持つのです。」
わたしたちは,
イエス・キリストがもう一度来られる時,
新しい体を受け取ります。
その体は「天上のかたち」だといいます。
☆彡
(1コリント15:42-49)
「死者の復活もこれと同じです。
朽ちるもので蒔かれ,
朽ちないものによみがえらされ,
卑しいもので蒔かれ,
栄光あるものによみがえらされ,
弱いもので蒔かれ,
強いものによみがえらされ,
血肉のからだで蒔かれ,
御霊に属するからだに
よみがえらされるのです。
血肉のからだがあるのですから,
御霊のからだもあるのです。
聖書に
『最初の人アダムは生きた者となった』
と書いてありますが,
最後のアダムは,
生かす御霊となりました。
最初にあったのは血肉のものであり,
御霊のものではありません。
御霊のものはあとに来るのです。
第一の人は地から出て,
土で造られた者ですが,
第二の人は天から出た者です。
土で造られた者はみな,
この土で造られた者に似ており,
天からの者はみな,
この天から出た者に似ているのです。
私たちは土で造られた者のかたちを
持っていたように,
天上のかたちをも持つのです。」
○
「死は勝利にのまれました」
(1コリント15:54)
「朽ちるものが朽ちないものを着,
死ぬものが不死を着るとき,
『死は勝利にのまれた』
としるされている,
みことばが実現します。」
死の解決は,
イエス・キリストを信じることで
得られます。
わたしたちのからだの完全な救いは,
「復活のからだ」とも言われます。
イエスの再臨のときに与えられます。
○
死は勝利にのまれた。
(1コリント15:54)
「死は勝利にのまれた。」
イエス・キリストの復活によって,
イエス・キリストの十字架の意味が
深く理解できます。
わたしたちは,
復活によって次の事柄を
理解することができます。
1,わたしたちが義とされる。
2,わたしたちが,新しい人となる。
2,わたしたちが,新しい人となる。
(1ペテロ1:3)
3,多く恵みが与えられる。
3,多く恵みが与えられる。
わたしたちは,
イエス・キリストの復活によって,
イエス・キリストが生ける
神であることがわかりました。
イエス・キリストの十字架の業が,
わたしたちの罪の赦しを
与えることがわかります。
イエス・キリストの復活は,
イエス・キリストの復活は,
死の克服です。
それは,イエスが勝利者だからです。
☆彡
死は勝利にのまれた
(1コリント15:54-57)
「朽ちるものが朽ちないものを着,
死ぬものが不死を着るとき,
『死は勝利にのまれた。』
としるされている,
みことばが実現します。
『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』
死のとげは罪であり,
罪の力は律法です。
しかし,神に感謝すべきです。
神は,
私たちの主イエス・キリストによって,
私たちに勝利を与えてくださいました。」
○
私たちに勝利を与えてくださいました。」
○
神の愛による勝利
(ローマ8:37-39)
「しかし,私たちは,
私たちを愛してくださった方によって,
これらすべてのことの中にあっても,
圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。
死も,いのちも,御使いも,
権威ある者も,今あるものも,
後に来るものも,力ある者も,
高さも,深ささも,
そのほかのどんな被造物も,
私たちの主キリスト・イエスにある
神の愛から,
私たちを引き離すことはできません。」
私たちを引き離すことはできません。」
○
マラナ・タ(主よ,来てください)
(1コリント16:22-24)
「主を愛さない者は,
神から見捨てられるがいい。
マラナ・タ(主よ,来てください)。
主イエスの恵みが,
あなたがたと共にあるように。
わたしの愛が,
キリスト・イエスにおいて
あなたがた一同と共にあるように。」
1コリントの手紙の終わりは,
「主よ,来てください」
です。
ヨハネの黙示録の終わりと同じです。
2020-11-23