日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に

久々に更新させていただこうと思います。

生産性運動に対して有効打を打てないままの国労にあって、国労はこの後動労と一緒に反撃に出るわけですが、ここで少しだけ寄り道して、当時の組合を取り巻く事情を考慮してみたいと思います。

生産性運動への反対は青年による突き上げが大きかった

有効打を打てないままずるずると追い詰められていった国労ですが、ここで少しだけ当時の動労の様子も見ていきたいと思います。

この頃の国労動労も生産性運動に対する有効な打開策は見つかっておらず、国鉄当局自身が生産星運動は経営哲学であるとして、ここまで進めた以上当局もおいそれと看板は下ろさないであろうと、その反面、国労動労も理念だけの反対であり、

組合側は 「特効薬はない ,反撃あるのみ」といって ,反対闘争を展開する。これでは一体どういうことになるだろうか。目下のところ,泥沼闘争化するだろう 、という予想しかつかないわけである。

労働評論家有賀宗吉氏は手厳しく述べています。

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国有鉄道1971年10月号

その後のスト権ストなどでも、共闘する動労ですが、この当時の動労はかなり厳しい状況に追い込まれていたようです。

元々、機関助士反対闘争で多くの処分を出してきたこともあり、そこに来て生産性運動による脱退、鉄労への加入もあって、国労内でも動労を再び統合すべき時期に来ているのではないかという風潮がありました。

動労はかなり厳しい組織運営を迫られることに

元々、機関車労組として出発した動労昭和32年に改名)では、元々は穏健派の同志会(後に労運研)と呼ばれるグループが中心で、結成当初は本社運転局が後援したとも言われたが、この頃には反主流派である左派の「政策研究会(政研派)」が徐々に力をつけて行くとともに、政研派の影響を強く受けた反戦青年委員会を中心とするグループが生産性運動反対の急先鋒になっていったわけで、これは国労も同じく、青年部による行動が大きかったと言えます。

この頃の動労は、反戦青年委員会の力が強く(これは国労も同じですが、国労は彼らを封じ込める方向に動いたのに対して、動労は政策研究会(政研派)がむしろ擁護に動いたこともあり、後に鬼も動労と言われるような過激な運動に向かうこととなりました。(反戦青年委員会の中には、動労ではその急先鋒と言えたのが、当時、動労東京地方本部書記長であった松崎明(本人は、1963年に国鉄を解雇されており移行は専従組合員)であり動労は更に過激な集団へと進んでいくことになります。

そんな中で、動労自身は比較的穏健であった同志会(後の労運研)は徐々に追いやられていくこととなります。
そこで再び視点論点を参照しますと、国労動労に対して下記のような発言をしています。

現在の動労について、組織の危機というような点がささやかれ,国労の運動方針には、「動労に対しては、近い将来恒常的な共闘態勢の発展の中から、組織の統ーをはかるよう 、ねばり強く呼びかける」と書かれてお り、両労組の合併も時間の問題ではないか、と見ている 人もいる位 だ。動労の幹部の心のうちには,祝賀気分にひた
ってばかりはいられない、きびしい何ものかがあったと思う。

これに対して動労はコメントを発表していませんが、鉄労も同様に新組合員獲得に動いており、動労としてはかなり厳しい状況に置かれていたことは間違いないかと思われます。

鉄労は以下のように鉄労大会で発言

ここで当時の鉄労はどのように生産性運動を捉え、また行動していたのかというと、鉄労も新規組合員獲得に向けて、下記のよう運動方針であったとしています。

ここでは、国労権利闘争史から引用してみたいと思います。

鉄労の第4回・第5回全国大会での組織拡大・強化策は、当時の国鉄の実情を理解するのに欠かせないものといえる。まず、鉄労は、国労組織について、「この1年間に2万5000名減少し、71年6月1日現在24万台に凋落し・・・全施労*1の結成、大量処分発表」などにより「大きな動揺と混乱が続き、ますますその混迷を深めており、10万台への落ち込みは時間の問題」であると分析した。動労もこの間「5000名の脱退で5万を割り、崩壊寸前の様相を深めて」きたと評された。そして、このような組織情勢のもとで、「勢いの乗ってきた私たちの組織が10万から15万への躍進のチャンスを掴むことによって、国労に追いつき、追い抜き、主力組合に躍進する組織展望が10万達成を足がかりとして切り開かれた」とその自信のほどを示した。

とあるように、国労動労にとっては逆風であった生産性運動は鉄労に取っては追い風となっていたことは間違いないと思われます。

動労における派閥とは、労運研、政研派、中立【共産党を含む】の3派が鼎立、反戦青年委員会が政研派と接近することで動労は過激な方向に

動労における派閥とは

その反面、動労国労からも、鉄労からも草刈り場のようにされていしまった背景には、いずれ祖検証していく必要はありますが、動労が行った機関助士反対闘争でした。

機関助・・・蒸気機関車時代は必須で、開業当初は火夫(Fireman)後に「釜焚き」等とも呼ばれましたが、この存在は必要不可欠でしたが、動力近代化で無煙化されると、信号確認やタブレットの授受などが主な仕事であり、特に電化区間では自動信号化されている場合ほとんど信号確認だけと言うことになり、その処遇をどうするかという問題がありました。
そこで、合理化の一環で機関助士廃止が当局から提案されるものの機関助士の廃止は組合員の減少に直結するとして、長期の反対運動を展開、その中で解雇者を出すなどして行ったことから、組合を脱退するものも多く、機関助士反対闘争自身は、動労は敗北することとなります。

 

参考:機関助士反対闘争に関する記事

whitecat-kat.hatenablog.com

機関助士反対闘争中に起こした、米軍燃料輸送列車事故
【二つの目より四つの目】と言って反対してきたが・・・四つの目が事故を起こしてしまったわけで、その根拠はと問われることに。

ameblo.jp

続く

 

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*1:保線区を中心に分裂した組合で、一時期は保線区の大半が移籍すると思われたが、国労の介入で一部のみに留まることに