今日これから ブログ の話をします
昨日は朝7時から9時15分までいつもの広場(Moo Baan Seri 4) で体操をしてから.
The Nine ショッピングセンターに行って. ゆっくりして11時半ぐらいに家に帰りました どうしてこんなに 帰りが遅いのかとKAZOKU ni 言われましたが, 自分の時間を確保することも大切です
そして 午後2時から5時までは大学に行ってメールなどをチェックして時間を過ごしました 日本 ゴールデンウィークが近い せいか 日本からメールが来ていませんでした
去年の10月から12月までの勤務状況を楽勝に報告すべく エクセルを作ろうとしましたが あまり進みませんでした
家に帰ってからはまず Beer (Bi-ru)を開けました. 昨日買ったビールを半分だけ飲んでサランラップを(de)蓋に(wo)してさらに王冠をかけておくと, そのまま 炭酸が揮発せずに そこそこ美味しく飲めます まあ ルールの炭酸が抜けていても多少 雰囲気は味わえればいいわけですから そんなに問題ありません
今日は家族と息子と一緒に夕食を食べることができて、午後8時半までに幸せでした。 もう眠いのでどこに着いたのでしょう? おそらく午後11時頃からタブレットで中国か韓国の映画を見ていました。 寝たのは午前5時頃だったと思います。9月22日の朝、いつも通り午前5時に起きようと決めて、実際に目が覚めました。
ワタシの写真歴、カメラ歴は1974年小学校5年生の時に「学研」の科学・学習の付録のカメラだったと思う。
確かこれ学研のHPによると1973年になっている
印画紙は数枚しかなくて、カメラの結像するところのすりガラスを外して印画紙を装填することがわからなかった。
小6で 5000円のカメラを買って、その後、ロシア製の スメナ8Mをお年玉で買った
地元の写真屋さんで4500円で購入(たしか、、)
シャッターは1秒~1/250/まであったと思う。F4レンズがついていた。
もうちょっとちゃんとした一番レフがずっと欲しかった、
当時一番安い一眼レフは ペトリV6Ⅱだった。
当時37500円
あるいは YASHIKAFFT 確か同じく当時’37500円だったように思う
(タイの通信販売のPageから、確か2800thbで売られていたような気がする)
そして、、、2020年1月今の職場(タイの公益財団法人立大学)で移動を命じられた際、カメラ3台、どこにしまったか、わからなくなってしまった。
先月(2024/03)偶然、学生募集センター長から「こんなの見つかったが、あなたのものではないか」と言われて3年ぶりにデジカメが見つかった
20240416タイに来たばかりのころよく言っていたタンフアセンデパート(風前の灯火)
4月13日から15日まで パタヤに家族と一緒に行ってきました。
13日には午前5時40分に家を出て うまく 6 時の エカマイ 発のパテ屋行きのバスに間に合いました バス代は131バーツです。
パセラではホテルに泊まって近くのスーパーや 海を眺めたり セブンイレブンの2階の喫茶室で過ごした りぶらぶら としていました。 島に行くでもなく 何をするでもなく 3日間 過ごしました、
一番パタヤビーチの北にあるセブンイレブンの2階は最高
ホテルからしばらく歩いたところに飛行機が置いてある市場があります この市場は夜だけ食べ物屋さんがたくさんたって観光客で賑わっていましたがここでご飯を食べようと思いませんでした?
2004年3月 坂根さんが亡くなられてから20年になった。
坂根光夫さんと最初に出会ったのは1990年5月だったと思う。
当時、私は1988.12.21にタイに来てバンコク週報で1か月半だけ働いた後、Ladphraw 47にあるA.L.C47という学校で日本語を教えていた。 (ストリートビューで探したが、見当たらなった。数年前まではオーナーの奥さんが一人でやっていた)
その後1990.05今の勤務先の親団体であるTPA สมาคมส่งเสริมเทคโนโลยี ไทย-ญี่ปุ่น で非常勤の日本語教員の仕事を得て、最初に担当した火・木の日本語教室で一緒だった。
授業が終わった帰りに「一緒に夕食を食べませんか」と誘われて、Soi24にある「とん清」にいった。多分、坂根さんがごちそうしてくれた。
依頼、TPAで一緒に授業をしていたこともあり、親しくしていただいた。
1994年だったか......Sukhumvit Soi 33/1で「D.D Book Shop」を開店して独立し、その前にご結婚もされた。
当時「リサイクルブックショップ」は他にあったものの、圧倒的に品ぞろえが少なかったが、坂根さんは以前、マレイシア、シンガポールで同様の書店を経営されていたノウハウとコネクションで、コンテナで古書を大量に集めていた。
漫画本(コミック)はすべてレンタルで1泊3日で10THBで、とても人気があった。
お子さんも二人生まれて順調だったが、確か、2003年大阪のがん検診センターに行ったら「肺腺癌」余命はあと1年とせんこくを受けた。
お子さんは長男のリュウ君が8歳。弟のケン君が4歳であった。
坂根さんと最後に会ったのは2004年3月10日ころだったと思う。
その後、多分3月24日に亡くなられた。
亡くなられた際の話はバンコク週報に居た宮田さんから教わった。
そして、20年後坂根さんと同郷(三重県伊勢市)の友人である 仲野さんに三年ぶりにお会いして一緒に奥さまのPleさんが建てた家に行った(先のBlog参照)80坪を超える豪邸だった。坂根さんmの喜んでいると思う。Ryuは28歳、現在Girl Friendと暮らしている、卒業式などの写真を撮る仕事をしていて、彼自身写真を勉強したことはないが、彼女に教わって一緒に仕事をしているらしい。
Kenはタッマサーット大学の会計学部(商学部)を卒業してCapital Nomura Secultyで働いている。
昨日だろうか、Nakanoさんから坂根さんのお墓にお参りした写真が送られてきた。
私もこのソンクラーンの休み中に一回詣でます
仲野さんと3年ぶりに会って一緒にPleさんの家に
(なかのさんは90年代初めにお店をやっていたPleさんにスーツケースを預けていた)
30年ぶりにあけられたなかのさんスーツケース !
Pleさんが
女手一つで建てた立派な家。2017年に。
NAKANOさんは90年代、日本の装飾品をタイに持ってきて、あちこちのデパートで催事をやっていた。メリーキング、ロビンソン、キャセイデパート、PATA、セントラル、The Mall5(今のザ‣モール タープラ)などほとんどBKK主要デパートで特に真珠の装飾品の展示即売会をやっていたが、VAT(付加価値税)の導入でタイに法人がないNAKANOさんは催事ができなくなってしまった。
このイヤリング、その当時の商品。真珠は本物。
2024-03-16 Sat 朝7:30に出て、Asia Hotelで河井先生と合流しTUATの学生さんとSEM(マンゴー輸出業者)見学の後、アユッタヤー歴史公園(世界遺産)見学)
ワットヤイチャイモンコン
https://maps.app.goo.gl/yLWeXPHsAhfc7fJ67
凝ったメニューが多く、全員のオーダーが出てくるまで2時間くらいかかった。
昼食は Saithong River restaurant 予算一人 375THB