ロックバンドが歳を重ねることで直面する壁とは何か? – ”遅咲き”や”再ブレイク”したバンドの事例から

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日本では”若者のロック離れ”が言われることもあるが、現代においても若い人に支持されるロックバンドがいることも事実である。

そしてロックバンドとは、もともと若者のものであり、若者の感覚だからこそできるものではないか、と筆者は考えている。

それが近年はロックバンドの活動年数が長期化し、20年・30年と続くバンドが多くなってきた。

長く続いているバンドを見ていると、どうしても若い頃に始めたバンドのあり方が変化せざるを得ないタイミングが出てくるようだ。

その変化になかなか苦悩する結果になることもあるが、上手くそれを乗り越えて、むしろ再ブレイクや遅咲きと言われるブレイクを経験することになったバンドもある。

今回の記事では、ロックバンドが歳を重ねるとはどういうことなのか、そして直面する壁とは何か、について考察する。後半ではその壁を乗り越えてブレイクに結びついたバンドの事例を紹介する。

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ロックバンドが歳を重ねること、直面する壁とは何か?

前半では、ロックバンドとはそもそもいかなる存在なのか、について考えつつ、時代を経るにつれて起きる変化について、よくある流れをたどってみることにする。

ロックにおいてよく言われる”初期衝動”こそ、ロックバンドの原点であるが、そこを軸にしつつも、いかに進化していくのか、と言う過程とも言える。

ただ歳を重ねるにつれて、右肩上がりの意味での”進化”が難しくなるタイミングがあると考える。それこそが今回取り上げたい壁である。

その壁とは何か、そしていかに乗り越えていくのか、について具体的なバンドの事例も交えつつ考えてみた。

当ブログでよく取り上げている日本のハードロックバンド人間椅子や、その他いくつかのバンドやアーティストを例に挙げている。

ロックバンドはやはり若さが重要?

ロックバンドがたどっていく道のりについて考えてみようと思う。

そもそもロックバンドのカッコ良さと若さは、どうしても密接に関連しているものである、と筆者は思う。

大きな話になるが、「若さとは何か」と考えた時に、それはまだこの世界について十分知らない、ということである。

中でも人生の中で経験する様々な感情や、それにどう対処したら良いのか、といった生き方について、経験値がない、ということが音楽の表現においては重要である。

それゆえに日々生じる出来事に対しても、純粋に感情を経験し、そこからダイレクトに影響を受ける。怒りや悲しみなどをダイレクトに経験するほどに、それが表現の原動力となる。

こうした原動力こそ、ロックにおける”初期衝動”と言われるものであり、表現者の生々しい感覚がそこに込められたものである。

そして表現に対しては、まだ白紙の状態から作り上げていくもので、なぜそうした表現をするのか、明確な理由はないままに表現活動が行われる。

美しい・カッコいいとか、あるいは恐ろしい・破壊的である、など、表現者が”良い感じ”であるものを理由もなく作るところに、若さと初期衝動がある。

制作者側からすると初期には粗さも目立つのだろうが、若さゆえのピュアな表現がリスナーの胸を打つのが初期の作品と言うことだ。

それゆえ、ロックバンド(バンドに限らないが)の”初期”と言われる作品には名盤と評されるものが多い。初期とは1枚目、あるいは2枚目くらいまでをここでは指すと思っていただいて良いだろう。

※歳を重ねるごとに、表現に”意味”が生まれ、初期の純粋さから離れてしまう点については後に詳しく述べよう。

またバンドという意味では、若さゆえにぶつかり合いが起きやすいため、初期衝動で成り立つバンドのバランスは非常に危ういものである。

短命に終わるバンドも多いし、メンバーチェンジと言う形で乗り切るバンドも多くなるのである。

たとえばイギリスのロックバンドThe Jamは1977年にデビューし、1982年には解散している。短い期間に6枚ものアルバムを残しているが、そのバランスは長続きはしなかったのだ。

The Jamはデビューの時にはパンクやニューウェイヴのムーブメントに後押しされていたが、もともとのルーツであるR&Bなどのジャンルが前面に出ていくこととなる。

ややマニアックなバンドであるが、NWOBHMの時代にデビューしたイングランド出身のVenomは、初期のアルバムこそ素晴らしいが、すぐにバランスを崩していくこととなる。

『Welcome to Hell』『Black Metal』という2枚のアルバム以降、独特のおどろおどろしさと、ポンコツメタルと言われる不思議な疾走感は、若さゆえに表現できた音楽性だったのだろう。

初期に作られたこれらの音楽が後のヘヴィメタルバンドに絶大な影響を与えたのであるが、バンド自体の評価がそれほど高くないのは、やはり初期だけが評価されているからなのだと思う。

さらに日本のハードロックバンド人間椅子の場合、やはりデビュー前から演奏されている楽曲の集大成である1st『人間失格』が名盤として評価されている。

いまだライブで演奏される人気曲が多く、既に完成された世界観がありつつも、初期衝動で思いのままに作られた感じが、聴く者を惹きつけるのだろうと思う。

円熟から葛藤の時代へ

ロックバンドの表現においては、基本的にピュアな表現としての初期衝動、そして理由もなく全力で表現される音楽が、常にどこかにあることでロックらしさがあるものだ。

しかしその絶妙なバランスは、若い時期にしか成り立ち得ないものらしく、当然ながらメンバーが歳を重ねれば、表現のあり方は変化せざるを得なくなる。

バンドが解散せず、メンバー変更を経てもバンドが継続したならば、バンドは原点を守りつつも、音楽的な実験を通じて洗練していく方向に進むことが多いようだ。

得意とするジャンルや表現方法をより深めたり、新たな音楽の要素をブレンドしたりしながら、音楽的に成熟する段階である。

早い場合は3枚目くらいのアルバムから始まり、長ければ10枚くらい作品を出す間にどんどん洗練され、成熟したバンドになっていく。

とは言え、まだまだバンドの年齢は30代頃であり、若さゆえの勢いとがあることで、ロックの持つ衝動性は保たれており、バンドとしては脂の乗った時期と言っても良いだろう。

たとえばアメリカ出身の世界的ヘヴィメタルバンドMetallicaは作風が変化することで知られるが、1991年の5th『Metallica』がグルーヴを重視した新境地ながら、成熟した雰囲気を感じさせる。

バンドとしての音楽的実験と成熟がMetallicaのように評価されれば良いのだが、マニアックなものと見られてしまうと、厳しい時代を過ごすことになる。

人間椅子の場合、後藤マスヒロ氏が在籍した時代が、音楽的な構築度や完成度などで頂点を極めた感じがするし、初期衝動的な若さも感じさせる良い時代だった。

たとえば2000年の9th『怪人二十面相』は非常に洗練された音楽になっており、おどろおどろしさの中にも洒脱な雰囲気さえ感じさせる、大人のロックアルバムと言った印象である。

本作収録の「芋虫」は江戸川乱歩の小説にタイトルを借りつつ、ハードではない形で70年代ハードロックの芸術性を見事に表現した傑作を生みだしている。

しかしこの時期は人間椅子にとって不遇の時代であり、非常にクオリティの高い音楽をやっていても、なかなかセールスには結び付かなかった。

そうした時代を経ると、次第に音楽的な実験もやり尽くし、バンドとして何を表現していけば良いのか、葛藤の時代が訪れることが多いようである。

原点である初期衝動からは随分と離れた地点に来ていることも多く、原点を見つめ直すべく、昔の曲を録り直したり、ベスト盤を出したりして、バンドの方向性を探るという手もあるだろう。

年齢を重ねて40代に入れば、徐々に20代の頃の初期衝動による表現は馴染まなくなっていく面もある。

加えて、キャリアを重ねた分、自らが表現することの理由や意味を見出そうとしたり、ファンから見えるバンド像やイメージが出来上がり、”枠”が増えていくことにもなる。

このバンドはかくあるべし、と言った枠が良くも悪くも基準になってしまい、さらに葛藤を抱えてしまう場合もあるのだろう。

再び人間椅子を例に挙げれば、40代に入ったアルバム『瘋痴狂』の頃は、ドラマーがナカジマノブ氏に代わり、新たなバンド像を構築する必要もあったが、模索の時代となっていた。

ギター・ボーカルの和嶋慎治氏は実験的な要素を盛り込み、落語とロックを組み合わせた「品川心中」を作るなど、何とかして新たな方向性を見出そうと苦心していた様子が窺える。

和嶋氏自身も、人生に悩んでいた時期であったと、自伝『屈折くん』で語られており、そうした年齢に伴うライフステージの変化もあるのだろう。

ロックバンドを長く続けるには転換や”開き直り”が必要?

ロックバンドとして音楽的な洗練を突き詰め、そうした実験もやり尽くした頃には、バンドもベテランの領域に入っていくことになる。

セールス的な成功をそれまでに収めたか、ということも大きな要因にはなるが、それに関わらず、長く続くバンドが直面する壁のようなものには共通するものがあるように思える。

それは若い時期から続く表現のあり方の、根本的とも言える転換、あるいは若い頃と同じロックはできない(続けない方が良い)と言う”開き直り”ができるかどうか、ということである。

こうした転換が必要になるのには、複合的な要因があるだろう。既に述べた通り、ある程度音楽的にはやり尽くした感が出てくるし、若い頃の表現と今の自分が合わなくなる問題がある。

それに対して、ファンは若い頃のイメージでバンドを見てくるが、それと現在地とのズレをどのように考えるか、という問題とも関連する。

また若い頃には似たような価値観・境遇で集まったバンドメンバーも、歳を重ねるごとにライフステージの変化には個人差が生まれ、上手くかみ合わないと葛藤が起きやすくなる。

こうした様々な要因のどれかが引き金となって、バンドの転換点を上手く乗り切れるかどうか、がベテランバンドとして続けられるかどうか、だと思っている。

バンドではないものの、ソングライターの浜田省吾氏は1986年の『J.BOY』というモンスターアルバムのヒットから、次第に自身の活動の方向性に苦悩することになったようである。

成功は収めたものの、世間的なイメージと自身の表現のズレも大きくなり、徐々に年齢も重ねて、若い頃の初期衝動のみで音楽を続けていく年齢でもなくなったのだろう。

浜田氏の場合は、1990年のアルバム『誰がために鐘は鳴る』以降、少年の成長物語を描く作風から、より多彩な歌の主人公を描く方向性に舵を切った。

それはロックアイコンとしての浜田省吾ではなく、ソングライターとしての浜田省吾をより前面に打ち出していく方向性だった。

もちろんそれは計画的に行われたものではなく、模索と苦悩の末に選んだ道だったようである。これまでのイメージや表現方法を大きく変えることで、活動を続けることができたのだろう。

なぜ浜田省吾が自らを「ソングライター」と称するのが最もしっくりと来るのか?

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転換や”開き直り”によってブレイクしたベテランバンドの事例

浜田氏のように既に成功を収めていた場合とは異なり、なかなかブレイクできない、あるいは低迷していたバンドが、ベテランになって転換や開き直りを経験して、ブレイクした事例がいくつかある。

もちろん個々のバンドに事情は異なるし、それまでの商業的成功などにも差はあるが、何らかの変化によって、それまでより明らかに注目度が高まったと言う点では共通している。

バンドメンバーの活動時期も似ており、かつ注目を集め時期も似ている、エレファントカシマシ・怒髪天・人間椅子の3組の事例を取り上げた。

2010年前後にいずれのバンドも注目を浴びており、何らかの転換が起きた点が似ている。

一点補足をすれば、当時は中年のベテランバンド再評価の機運も、ブレイクを手伝っていた側面はあったかもしれない。

エレファントカシマシ

エレファントカシマシは1988年に結成された4人組のバンド。ボーカルを務める宮本浩次氏の作る楽曲、そして唯一無二のボーカルが特徴である。

エレカシは時期によってかなり音楽性に変化があるが、エピックソニーに在籍した初期は非常に尖った音楽であり、知る人ぞ知るロックバンドであった。

エピックソニーとの契約が切れた後、ポニーキャニオンに移籍してから作風がポップな方向に転換し、1997年に「今宵の月のように」がドラマの主題歌に起用され、80万枚を超えるヒットとなった。

30代前半でブレイクして、テレビ番組にも多数出演するなど売れっ子を経験している。ただそうした活動の在り方にも疑問を感じ、徐々にメディア露出は控えるようになっていった。

その後は攻撃的な作風になったり、ポップに戻ったりと、模索の時代を経験する。移り変わりの激しい音楽業界にあっては、2000年代も中ごろになると、「今宵の月のように」も昔のこととなった。

30代後半に入った頃には、徐々に中年になっていくことを自覚し、それが歌詞にも表れ始めたのが2004年の『扉』や2006年の『町を見下ろす丘』であった。

この当時にエレカシを聴き始めた筆者は、このまま中年のバンドとしてファンとともに年齢を重ねていくのか、と思っていたが、それとは違う方向に進むことになる。

エレカシにはよくあることながら、レコード会社をユニバーサルミュージックに移籍したことで作風に変化が見られた。

若いプロデューサーとタッグを組んだことも手伝って、再びポップな作風に回帰したのだった。その第1弾となったのが、2007年の「俺たちの明日」だった。

作風としては「今宵の月のように」の頃のポップさや分かりやすさが戻りつつも、中年になったことで書ける歌詞の世界観が、非常に等身大の楽曲として、世に受け入れられたのだろう。

宮本氏の中で、どんな変化があったのか十分には分からないところもあるが、それまでの様々な音楽性の変遷が、ユニバーサルミュージック時代には”統合”されたような印象がある。

攻撃性もポップな方向性も、どれかだけを突き詰めるのではなく、どれも自分自身の表現である、と言う統合された感覚が、逆に分かりやすいポップな表現に結びついたのかもしれない。

ややマニアックな方向に進んでいた2000年代中頃であったが、どこかで奮起したタイミングがあったのだろう。

カラっとしたような清々しさを感じさせる作風が2007年以降のエレカシには見られ、結果的に再び知名度を上げて、ベテランバンドとしての地位を確たるものとしたのだった。

2007~2008年のエレファントカシマシ – 楽曲リリース時の思い出あれこれ(前編)

怒髪天

1984年に結成され、1991年にデビューした北海岬出身のバンドが怒髪天である。「リズム&演歌」を標榜し、日本の文化を土台にしたロックンロールサウンドが特徴だ。

彼らは北海道での活動の後、バンドブームの去った東京でデビュー。ブルースを基調とした渋い音楽性で、なかなかセールス的には結び付かず、1996年に活動休止している。

1999年にインディーズで活動を再開。再開後は、よりロックサウンドを前面に出し、男臭いロックを歌いつつ「リズム&演歌」の形が出来上がっていった。

インディーズ時代の彼らは30代で、音楽的な実験をたくさん試み、楽曲は非常に充実したものであった。一方でボーカル増子直純氏の作る歌詞には、まだ若さ特有の悲しみが漂っていた。

2002年のアルバム『武蔵野犬式』収録の「蒼き旅烏」は、基本路線は今の怒髪天と変わらないものの、何とか自分を奮い立たせて歌うような悲壮感のようなものが、背後に見え隠れするようである。

2004年にテイチクエンタテインメントのレーベルインペリアルレコードより再メジャーデビューすると、音源制作やライブ活動もより活発になっていった。

そして40代に入り、彼らの楽曲に変化が見られる。増子氏の歌詞には”開き直り”のようなものが見られ、ネガティブさは一周回ってポジティブになっていったようである。

そこには年齢を重ねたことで見えてきた、経験や人生観の変化があったのだろう。同じくして、作曲担当のギター上原子友康氏の楽曲は、実験要素が削ぎ落され、どんどんシンプルになっていった。

結果的に非常に分かりやすくパワフルになった怒髪天の楽曲が、徐々に注目され始める。中年のベテランバンドに元気をもらえる、と言った雰囲気が強まり、怒髪天の知名度が上がっていった。

それは2009年前後のことで、増子氏が桃屋の『辛そうで辛くない少し辛いラー油』のテレビCMに出演して注目を浴びたことも、そうした流れの中にあったように思える。

2010年リリースの『オトナマイト・ダンディー』収録の「オトナノススメ」は、「オトナはサイコー!」と開き直って歌う姿勢に、多くの人の共感を呼んだのだった。

2014年には結成30年を記念し、初の日本武道館公演を日本のロックバンドでは最も遅い記録(当時)として行うまでに至った。

なおその後の怒髪天の活動は安定しているかに見えたが、メンバー間での問題は生じていたようで、2024年にベースだった清水泰次氏が解雇されるというまさかの事態になった。

3人となった怒髪天はサポートメンバーを入れて、また新たな怒髪天の形を模索しながら活動を継続している。

国内ベテランバンドの”熟年離婚”が増加中? – 3バンドの脱退・解雇の事例紹介と共通する傾向とは

人間椅子

人間椅子は1987年に結成、1990年にメジャーデビューを果たしたハードロックバンドである。日本文学に影響を受けた歌詞と、1970年代ブリティッシュハードロックのサウンドの融合が特徴だ。

人間椅子が世に知られるようになったのは、結成から早い段階で、1989年にTBS系列で放送されていた深夜番組「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称:イカ天)への出演である。

アマチュアのバンドが出演する同番組で、江戸川乱歩の小説からタイトルを借りた「陰獣」で、おどろおどろしい世界観と高い演奏技術、インパクトのある見た目で、注目を浴びることとなる。

下積みを経験することなく、1990年に『人間失格』でメジャーデビューしたが、バンドブームの終焉とともに、人気は下火となっていった。

メンバーが30代になった頃から長く続く低迷期に入り、インディーズや単発メジャー契約を渡り歩く時期も経験した。

またギター・ボーカル和嶋慎治、ベース・ボーカル鈴木研一の2人で結成されたバンドゆえか、ドラマーの交代も何度か経験し、2004年にナカジマノブが加入して安定することとなった。

作詞を主に担当する和嶋氏は30代後半頃から、作品づくりから人生に至るまで悩むようになり、それまでは心の闇を吐露するような歌詞もあったが、そうした表現のあり方に悩み始めたようである。

そしてある時、表現の軸となるような感覚を自らの内側から掴んだ経験を通じて、歌詞や曲の表現法が大きく転換していくこととなった。

2009年の『未来浪漫派』辺りから顕著になり、ちょうど活動20周年を迎えたことも後押しして、ライブの動員がじわじわと増え始めていった。

和嶋氏は自分で得た感覚をもとに、ただ心の闇を描くのではなく、そこから希望を感じさせる歌詞に変わった。それと同時に、音楽性も以前に比べるとシンプルなものにそぎ落とされていった。

そして2013年には敬愛するBlack Sabbathが出演するOzzfest Japan 2013への出演が決まり、人間椅子の知名度を飛躍的に伸ばすこととなった。

その後の人間椅子は原点に戻るようなヘヴィな音楽性に向かいつつも、それまでにないシンプルな楽曲がファンを増やすことになったのだろう。

2019年にYouTubeで公開した「無情のスキャット」のMVは国内のみならず海外で拡散され、1500万回を超える再生回数を記録している。

人間椅子はずっと変化していないバンドに思われるかもしれないが、40代に入ってからの和嶋氏の変化に伴う楽曲の変化、そしてソリッドになっていくバンドサウンドなど、確実に変化してきた。

その結果として、音楽性の芯の部分は変わらず、中年のベテランバンドになってから”再ブレイク”を果たしたのだろう。

イカ天バンドと言われた人間椅子はなぜ再ブレイクしたのか

まとめ

今回はロックバンドがたどる道のりについて考察しながら、とりわけ長く続くバンドが直面する課題について掘り下げてみた。

ロックバンドが、若さが重要な要素となる”初期衝動”をベースにするために、やはり歳を重ねることで、バンドの初期衝動との折り合いをどうするか、という問題が生じてくるようである。

後半で取り上げた3つのバンド、エレファントカシマシ・怒髪天・人間椅子の事例では、40代に入る頃にそうした転機が訪れ始めているようだった。

いずれのバンドもリリースしたアルバムの数も増えて、ある程度バンドのイメージも固まり、今後どのように活動していくのか、模索する部分はあったことだろう。

共通する要素としては、バンドとしてのデビューから20年、25年など節目が訪れることで、自身の歩んできた道のりを振り返る機会になっていることは、ポジティブなことなのかもしれない。

どれだけ商業的に成功したかどうかに関係なく、それだけバンドとして続けられたことは重みのあることである。(怒髪天は活動休止期間があるため、少し事情は違いそうである)

何十年とバンドが続くだけでも凄いことであるが、絶えず変化を続けながら、中高年になってからバンドがブレイクする現象は非常に興味深いものである。

そうしたバンドには何らかの使命があってバンドを続けることになっているのかもしれない。ぜひベテランバンドが末永く活動が続いていくことを願っている。

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