終わりのない奇妙な物語

 

 

 

その « ある男 »というのは、いつも黒いコートと黒い帽子で、まるでスパイのようだった。

暗い街に黒影を落として、コツコツとコンクリートを鳴らしながら歩く。

 

男はいつも、とある家の前までいくと1度立ち止まり、そしてまた歩き出す。奇妙な行動に好奇心が湧き、男を見ることが日課になっていた。

 

ところで、念のために伝えておくが、話をしている私は、ストーカーでも探偵でもない。毎日同じ時間に夜勤に向かう病院働きの青年である。

 

 

ある静かな月明りの夜だった。

 

全てが冷たく固まり風もなく、遠くの街の喧騒さえ静まり返って聞こえない夜。

私らしくない日だった。

私は決まった時間に家を出たあと、忘れ物を取りに道を戻ったのだ。

 

時間通りに動くのが日課な私が、忘れ物を取りに戻って時間を狂わすなど、はじめてだった。

 

今日はあの男には会えないだろう、そう一瞬思ったが、狂った時間を戻すのに意識が向いて、とくに気にも留めず急ぎ足で道を歩いていた。

 

「青年、」

 

突然の声に心臓が止まった。

 

こんな暗い夜道で話かけられる日が来るなんて。

 

私はなにも言わずに後ろを振り向いた。

 

「青年。君はボタンを落としたか。」

 

驚いたことに、その男はいつも私の前を歩いているあの男だった。

 

今日は何故こんな時間に私の後ろに、それも真後ろに立っている...。

 

想像していたよりも若い顔つきで、整っているようだが、月が厚い雲に隠れていてよく見えない。

 

堂々と躊躇なく私の前に立つ姿に一瞬固まったが、すぐに袖や胸元のボタンを見た。どこのボタンも取れていない。

 

よく考えればおかしな話だ。私の何を知っていて、私のボタンだと主張するのだ。

 

しかし、その時の私は咄嗟のことで、なにも疑問にもたずに男に返答した。

 

「いえ、とれていませんが・・・」

 

すると勢いよく男は私の右手をひっぱり、手のひらの上に何かを置いた。

 

「君はボタンを落とした。」

 

まっすぐに私を見ながら、男は冷たい手のひらを指先からほどいていった。

 

雲が途切れて月明りが男を照らす。白い肌をしていて、レプリカのように感情のない表情をしていた。

 

遠くまで見透かすようなまっすぐな瞳をしている。

 

私はこれまでに感じたことのない恐怖を感じて、そのまま何も言わず呆然として男を見ていた。

 

男は私に背を向けて、足早に去りはじめた。

私ははっと我に返り手のひらを見ると、ボタンがある。

 

【これは私のものではないのです!】

 

声を出して言うべきだが、声がでない。

 

「これは、私のもので、ないのですが・・・」

 

小さく私は言った。

 

走って男を追いかけたいのだが、やはりうまく動けない。

 

少し反応して男が振り向いたように見えたが、男はすぐに暗闇の中へと消えていった。

 

不思議なことに、静まり返っていた街の喧騒が聞こえ始めた。

 

私は手の中に残されたボタンを見た。

ボタンにしては非常に重さがあり、月明りに照らしてみると赤く輝く。紋章のようなものが表に、裏には花の絵が描かれている。

 

よく見ると小さく”Erenに贈る誓い”と書かれている。

 

こんなものは持ってはいられない。

私は焦って男を探すが、当然ながら会えなかった。

 

 

あれから私は、いつもより少し早い時間に仕事に向かうようになった。

 

男はその後、1度も見ていない。

 

ボタンは常にポケットに入れて持ち歩き、あの日と同じ格好をして職場へ向かう。男に気付いてもらうためだ。

 

ところで、私がいつも歩いているこの道で、最近妙な音を聞く。

 

あの家の前を通りすぎるとき、コツンっと音が聞こえるのだ。

 

何か小さなものが落ちる音。

 

どこから聞こえてくるのかよく分からないので、立ち止まり耳を澄ますのだが、やはり分からない。

 

遠くの喧騒がうるさ過ぎてかき消されてしまうのだ。

 

私の日課は、その音を聞いたあと、いつもの通りに歩きはじめること。

 

ちょうど同じ時間に後ろを歩く男の存在に気付いたのは、もう少し後の話だ。