食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

コーヒー・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(2)

2021-10-16 19:16:54 | 第四章 近世の食の革命
コーヒー・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(2)
2019年の統計によると、コーヒー豆を最も多く生産した国はブラジルで、約300万トンを生産しています。これは世界全体の生産量(約1000万トン)の30%に相当します。

コーヒー生産量の2位以下は、ベトナム(16.8%)、コロンビア(8.8%)、インドネシア(7.6%)、エチオピア(4.8%)となっています。

このうち、ブラジルとコロンビアは中南米(ラテンアメリカ)の国であり、ベトナムとインドネシアはアジア、そしてエチオピアはアフリカです。このように、現在ではたくさんの国々でコーヒーが栽培されています。

コーヒーはエチオピアが原産地であり、エチオピア以外の国々にはコーヒーノキ(コーヒーの木)が人の手によって運ばれました。

今回はラテンアメリカにコーヒーノキが持ち込まれることによって、コーヒー・プランテーションが始まるまでのいきさつについて見て行きます。

ところで、現在栽培されている主なコーヒーノキが「アラビカ種」と「ロブスタ種」です。現在のラテンアメリカでは主にアラビカ種が栽培されており、アジアでは主にロブスタ種が栽培されています。

一般的にアラビカ種の方が風味が良いため高級品種とされますが、病虫害に弱いという欠点があります。一方、ロブスタ種は病虫害に強く、様々な気候に適応して高収量が見込めるという特長を有しています。

なお、ロブスタ種が発見されたのは1895年のことであり、今回はアラビカ種のお話になります。


NickyPeによるPixabayからの画像

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エチオピア原産のコーヒーノキは、15世紀にイスラム教徒の手によってアラビア半島南部の現在のイエメンに持ちこまれ、栽培が開始された。栽培は軌道に乗り、15世紀から17世紀まではイエメンがコーヒーノキ栽培の中心地だった。

イスラム勢力はコーヒーの栽培を独占するため、栽培可能な種(コーヒー豆)や苗の持ち出しを厳しく取り締まっていた。しかし、17世紀になると持ち出しに成功する人が現れた。イスラム教徒のインド人がイエメンから密かに苗木を持ち出し、南インドでの栽培に成功したのだ。

さらにオランダ東インド会社は、1658年に南インドからコーヒーノキの苗木をセイロン島に持ち込み栽培を開始した。しかし、この栽培は最終的に失敗する。それでもオランダ東インド会社はあきらめずに、17世紀の終わりにはジャワ島で栽培を始めた。今度の栽培は軌道に乗り、ジャワ・コーヒーと名付けられた。1706年にはコーヒーノキの苗木がオランダのアムステルダム植物園に送られている。

オランダフランスは長い間敵対関係にあったが、1713年に講和条約が結ばれた。これを記念してアムステルダム市長からフランス王ルイ14世に、アムステルダム植物園で栽培されていたコーヒーノキの若木が贈られた。コーヒーの人気が高まっていたフランスは、この若木をパリ植物園で大事に育てたという。

さらにフランスは、高まるコーヒーの需要を満たすために、1715年にスペインから強奪したカリブ海のサンドマング(エスパニョーラ島西部で後のハイチ)でコーヒーノキの栽培を始めた。ところが、1725年のハリケーンでコーヒーノキはほぼ全滅してしまう。

一方、1723年にはガブリエル・ド・クリューというフランス将校がパリ植物園から密かにコーヒーノキの苗木を持ち出し、赴任先のカリブ海のマルティニーク島に持ちこんだ。彼が運んできたコーヒーノキは無事に成長し、順調に増えて行った。そして、マルティニーク島に加えて、グアドループ島やサンドマングでも栽培されるようになる。

サンドマングでは1725年のハリケーンでコーヒーノキだけでなく、カカオなどのプランテーションが壊滅状態に陥っていたため、マルティニーク島から導入されたコーヒーノキが救世主になった。こうしてコーヒー・プランテーションが急拡大し、1750年頃にはサンドマング産のコーヒーは全世界の生産量の半分を占めるまでに成長したという。

この同時期に南米大陸でもコーヒーのプランテーションが始まっている。

ブラジルの北側にあるギアナ地方は、イギリス・フランス・オランダが領有をめぐって争ったところだ。この中のオランダ領ギアナ(現在のスリナム)には、1718年に本国のオランダからコーヒーノキが運ばれてコーヒー・プランテーションが始まった。

その東隣のフランス領ギアナもコーヒーノキの栽培を行いたかったが、オランダから手に入れることができずにいた。そんな折、フランス領で犯罪を起こしてオランダ領ギアナに逃げ込んでいたムールジュという男が、恩赦の代わりにコーヒーノキを密輸する話を持ち掛けたのだ。この話に乗ったフランス領ギアナは目論見通りコーヒーノキを手に入れ、栽培を始めたのである。

一方、ブラジルもコーヒーノキを欲しがっていたが、手に入れる好機が1727年にやって来た。オランダ領とフランス領のギアナの間で始まりそうになった紛争を利用したのだ。ブラジルはその仲裁役を買って出たのが、特使のフランシスコ・デ・メロ・パリエッタという男にコーヒーノキを持ち帰るという密命を与えてフランス領ギアナに派遣した。

パリエッタはギアナ総督婦人を色仕掛けで篭絡した。そして、ギアナから立ち去る時に彼女から渡された花束の中にコーヒーノキの苗木と豆を紛れ込ませることで、首尾よくブラジルに持ち帰ることに成功したという。

こうしてブラジルでもコーヒー・プランテーションが開始され、1734年にはブラジルからポルトガルの首都リスボンに向けて、45トンものコーヒーが運ばれたという記録が残っている。


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