人が良いと言っても良いのかわからない。
自分ではけっこう腹黒いと思うこともあるけれど。
中国で教えているとき、多感な年ごろの高校生の年代の合併クラスを教える続けるために、もう1年、もう半年と契約延長をした。
おそらく1年や1年半で帰れば、苦労はしなかったと思う。
その話を始めるにあたり、記しておきたいことがある。
今は中国の若者など、ある意味日本よりもおしゃれで大人びているが、当時は田舎だと高校生といっても、まるで中学生にしか見えなかった。
そして、裕福な家とそうではない家との格差はけっこう大きかった。
そんな学生たちが一緒に勉強していた。
また、ある意味世間的一般的常識というものが無い学生も多く、私は礼儀やマナーの面ではとても厳しく接していた。
日本語教師というよりはまるで生活指導の先生・・・。
だが、厳しいのも、学生の将来を思ってのことであった。
さて、このクラスについてはあれこれあり、中国人、日本人教師も何度も入れ替わりがあった。
そのクラスの半数についてはすでに1年近く、残り半数については2回で計半年ほど教えていた私が続けて教えたほうが良いという考えであった。
その考えは私だけでなく、学校経営者も同じ考えであった。
クラスの半数の学生にとっては、とにかく礼儀やマナー面については厳しくて怖いというイメージが強かった私ではあった。
授業料が払えずに辞めて行った学生もいるが、私の厳しさが原因で去って行った学生も何人かはいたと聴いている。
だが、そんな学生たちも、「あの外教がなぜあれだけ厳しかったのか」を理解し始め、私も多感な年ごろの気持ちを考えられるように成長した。
さらに私が学生たちの心を掴んだのは、「常に学生のことを考えていること」らしかった。
もっとも、私も人間であり、日本語教師を続けながらも、中国生活は満喫していたけれども・・・。
途中、学校の移転もあり、お金がかかることから去って行った学生もいた。
このとき、「一緒には行けない」というような表情で天井を仰ぎ、続けてがっくりと肩を落とした女性を目撃している。
学校の移転後、ひと月ほど経ったとき、私は上級クラスの正担任となった。
このクラスはずっと教えていた子どもたちの中から選抜した成績優秀者たち、それほどの実力はなかったが、「参加したい」という強い意思を私に訴えかけた者たちに加え、大人のクラスから「日本語能力試験1級」合格を目指して上がってきた者たちで構成されていた。
注1:2009年までは「N1~N5」ではなく、「1級~4級」であった。
注2:国際的な外国語の試験は数字が高いほうのレベルが高いのだが、日本語能力試験だけはN1が最高峰である。
もちろん、どんなに私に訴えかけても、私が「今のままでは2級も危ないから」と上級クラス入りを拒んだ学生もいた。
とにかく、残った子どもたちを最後まで教え続けなければならない。
つまり、その再々契約の半年は「(当時は年に一回のみであった)日本語能力試験までの残り1か月少々を教えるため」であった。
それまで高専のクラスは2年で終わった。
だが、なぜかそのクラスだけ2年半の過程となった理由は何であったのか。
その理由は別に学校が儲けたいだけではないと思う。
18歳成人にならなければ、働けない。
そのクラスは2年修了の時点では18歳成人に達していない学生が多かった。
まあ、そんな事情はともかくとして、私はただ子どもたちを最後まで教えたかった。
ただ、その半年の延長がその後の私の生き方を変えることとなった。
1年で帰っていれば、後に様々な苦労を背負い込まなくても良かったはず。
だが、すべては自分で選んだ結果であるし、途中でその子どもたちを捨てて帰れば、絶対に後悔が残ったであろう。
また、それなりに長く中国にいたことで得たことも多い。
苦労はしたが、残って正解であったに違いない。
話は戻る。
学校移転のおりに、天井を仰いだ女性とは数年前に日本で再開することができた。
会社の研修で半年も日本に来ていたところをみると、相当仕事ができるのであろう。
実際私など何を教えたのであろうか。
私なんかよりも、最初から教えていた女性教師のほうこそ会いたかったに違いない。
連絡を取れるのが私だけであり、なおかつ会いに動けたのが私だけであったに過ぎない。
それでもお互い10年ぶり会えたわけであり、このことは感謝している。
その方に限らず、今でもWechatで動向がわかる当時の子どもたちも何人かいる。
今はQQを使っておらず(というかiPhoneではAppがうまく起動しないし、App上の危険もあるので)、たまにQQ空間を覗くだけになってしまったが、QQであれば繋がっている当時の子どもたちも多い。
話が脱線してしまった。
今はみんな30代になってしまった当時の子どもたち。
日本同様にすでにお子さんが大きくなっている方もいれば、結婚など微塵も考えてもいないような方もいる。
趣味もほとんど日本の若者と変わらない。
そして本当におしゃれである。
何よりも、みんな社会の役に立っていて、元気でいることが嬉しい。
最初は本当に幼かったが、卒業の数か月前にはしっかりと青春が香る青年の男女になっていた。
普通の高校ではなく、日本語がメインの私立の高専であり、ジャージ姿ではなない。
服装もしっかりとお兄さん、お姉さんであった。
当時の1級や2級に受かった学生も多かった。
ただ、私にとってはお金の問題により、途中で去って行った方々も大切な学生である。
その方々の一部ともWechatでの繋がりがある。
学校を離れたからといって、日本語を諦めたわけではなく、勉強を続けた方ももいれば、まったく違う道に進んだ方もいる。
私も別に日本語を学んだからといって、日本語に関係したことをしていなくても良いと思っている。
ただ、若い頃に日本語を学んだこと、外国人の教師に教えてもらったことは様々なことに活かせるに違いない。
わたしは、1年半ぶりにベトナムで会いましたが、日本語がぜんぜん話せなくなっていたのは残念だったけど、元気でいてくれて嬉しかった!
時代とともに変わってると思うのですが、昔、中国語を習ってたときの先生(留学生)が当時言ってたのは、子どものころから寮に入って、朝から寝るまで勉強してたと。何でそんなことを言ったのか、たぶん、日本の社会人のだらしなさ(わたし)に呆れたからだと思う。中国人と仲良くなると、つい子どものころどうだったか?と聞くと同じようなことを言ってきます。
日本で出会った中国人はみんな優秀だからかも?
それでも日本に来る中国人は、中国で1番の人ではなく、中の上くらいレベルの人なんですよね。
雨好きさん、子どもに厳しかったと書いてありましたが、むしろ中国に合っていた、向いていたような気がします。わたしの勝手な思い込みかも?
ただ中国は、広くて人口が多いし、カーストもあるので、なんとも言えないのですが(汗)
特に上級の学生によく言っていたことは「おそらく今が一番日本語を話せる状態なのかもしれないよ」ということでした。
仮に仕事で日本語を使っていたとしても、24時間日本語漬けの生活は少ないと思います。
中国の学校での寮生活。とても私にはできないと思います。日本の部活動やスポーツクラブなんか目ではない世界に違いありません。
厳しさが合っている、合っていないはともかくとして、当時はある意味私でなければならなかったのかもしれません。学生たちも日本語学校の中専コースでなければ、寮、通学はともかくとして、厳しく指導されたことでしょうね。
おっしゃるとおり、中国での差は大きいですね。
授業料が払えなくて、退学する方もいれば、現地採用の私が羨望の眼差して見てしまいそうなぐらいの身なりの若者もいたりします。
ただ、日本や中国に限らず、本当のお金持ちは言動もしっかりしていますし、特段良い物を着ているわけでもないところが素敵ですね。