まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

考え過ぎ、悩み過ぎは良くない

2021-10-16 22:34:00 | 行動計画 & 積極的思考

ある小さな港の食堂から聴こえてきた演歌。

しっかりと聴いていたわけではないが、しみじみと自分が日本人であることを実感した。

 

台湾にも韓国にも演歌っぽいものは存在する。

中国にいた頃はよく台湾の閩南語によるそれらを聴いていた。

 

だが、本日それが聴こえたのも、偶然ではないのだと感じる。

 

休みの日の自由時間。

前夜や当日にならないと、自分の自由時間がどこから取れるのか把握できないことも多い。

もちろん自分に大切な用事があるときはあらかじめ伝えておくけれども。

 

午前に買い物3軒。

けっこう早く終わったので、ずっと母親が行っていなかった近場の某所にお連れして自己満足身勝手な親孝行。

 

そのお仕着せの親孝行での安堵感もあり、午後は自分の振り返りを実践した。

その場合、よく訪れるのがお隣のA市。

 

よくそこで仕事をした。

多くは自分の青春時代のことでもあり、よく記憶に残っている。

中国で夕方キッチンに向かっていると、なぜかよくその市の光景を思い出していたぐらい縁があった地域であった。

 

現在、仕事でそことは違う隣のB市に通っている。

もちろんたまには他所へ数週間から数か月程度の出張仕事をすることもある。

だが、最近は今までの自分の日常の行動のあれこれが、微妙に仕事と被ることが増えてきた。

日本語教師になるための勉強をしていた頃、ふと「将来この地のオフィスに通う」ような気がしていたこともあり、元々そういう縁があったのであろう。

 

昨日仕事中、同僚との世間話の中で、自分の経験について「なんだかんだ言っても、段階を経てここまでたどり着いたように感じる」と呟いた私。

 

もちろんこの先、機会があれば、また日本語教師に戻りたい気持ち、外国と関係がある仕事に戻りたい気持ちは残っている。

 

だが、今は「今与えられたことをしっかりこなそう」と思う。

 

 

2週間前の土曜日であった。

10時前にフリーとなり、非常事態宣言が明けたら、行こうと思っていた他県の某所へと向かった。

車での移動中、勉強のMP3音声も、NHK R2で語学関連のことも聴いていた。

 

だが、それらの合間にふと違うラジオを聴いてみる。

FMで選曲したのは某AM局のFMでの放送。

このタイミングは素晴らしい。

もし、自分の県に居れば、民放AM局はどちらも野球中継をしていた。

そして、同じ放送ネットワークでありながらも、自分が住むところでは聴けない番組もある。

 

私にとって、とても大切な情報を得ることができた。

 

翌日日曜日はやはり隣の県のAM局で素敵な歌を知ることができたし、自分の県に戻る直前は、隣の県のローカルFM局で、ずっと私が考えていた方面に関する話題についての解説を耳にした。

 

先週も日曜日の移動中、ある番組開始より早かったのだが、NHK R2を選んでみると、ずっと自分が興味を持っているある西洋の某国の歴史について、自分の知らない情報を得たり、深く考えたりもした。

 

簡単にいえば、自分が気づくか気づかないかだけのことであり、自分の生き方について、常に何かのヒントを得ているものなのだと思っている。

 

それは何も音声によるものだけでなく、映像であったり、見えている光景であたり、何気なく手にした本やふと目に入った言葉であったりする。

 

 

話を元に戻す・・・。

本日、青春時代の思い出が詰まっている市であれこれ考えた。

様々な方と出会った。

そして、この市だからこそ経験できたことも多い。

 

生まれてから、今までの自分の行動の中で出会った様々な方や経験との縁も必然であったに違いない。

 

それは日本国内だけの話ではなく、中国という異国で出会った日本人、外国人を含むすべての方、すべての経験も含まれている。

 

もちろん、良い思い出ばかりではなく、嫌な思い出もある。

 

しかし、様々な人との出会い、様々な光景との出会い、様々な経験との出会いを経て、今の自分がある。

 

何を悩むこともない。

すべては自分や自然が望む方向に進むのであろう。

 

一昨日木曜日の晩、早く寝たのに、あれこれ考えてしまい眠れなくなってしまった。

だが、「自分が複雑に考え過ぎている」ことに気づき、すべてを受け入れることにした。

すっと心が軽くなり、眠りに落ちた。

 

すると、金曜日にそれまで悩んでいたことが急に改善し始めた。

 

ちなみにこれは神仏への祈りにも言える。

要求が複雑過ぎてはいけない。

そして、大袈裟に考え過ぎてもいけない。

自分が大袈裟に考えるからこそ、大袈裟なことが発生するのであろう。

 

実際に経験している。

ある方の病気についての祈り。

己の考えを変えた途端、その方が悩んでいたある症状がまったく現れなくなってしまった。

すべてがそうだとは言えないと思うが、ある部分は己や周りの方々の過剰な反応こそが負になっていることもあるのだと感じた。

 

もちろん、祈ればすべてが解決したり、治ったりするわけではない。

 

それは2年前に発見された父親の病気も言えた。

今まで何度か大病での入院をしても、生きて戻ってきた父親であったが、その時だけは無理であった。

今まで以上に真剣に祈ったけれども。

 

寿命などその例だと思う。

 

また、我々はどんなに努力に努力を重ねても、いくら正しい方法で行動しても手に入れられない夢があったりする。

 

今はその時期ではない場合、この先も自然はそれを望んでいない場合もある。

しかし、あまり深刻に悩まないほうが急に好転するケースもある。

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