カーリングチームのロコ・ソラーレ。
先月であったか、テレビで久しぶりに試合を見た。
思い出すのは、2018年2月のピョンチャンオリンピックで“ちょっとした”流行となったの「そだね」である。
だが、当時も記したのだが、私には「そだねー」とは聴こえず、普通に「そーだねー」と聴こえる。
もっとも私が聴こえるように文字化すると、「そ-だねえー」であるけれども。
実際そのように聴こえることについての理屈までは研究していない。
ただ、両親が北海道出身であり、自分も(そこそこ通訳できるぐらいは)北海道の言葉を知っていること、中国という日本語教育での日本語母語話者教師に対する発音とアクセントの面で厳格な世界で教師をしていたという前提があることだけは記しておく。
もっとも、北海道も街中の言葉はきれいなのだが。
さて、先週末、ひょんなことから、2013年秋の上級クラスに対する日本語教育試験N1の聴解対策中に触れた「ちょっとした」を思い出した。
このクラスの日本語力はけっこう高かった。
だが、そこはやはり日本語非母語話者であり、このような程度が低いのか高いのか一瞬考えてしまうような言葉でひっかかる学生もいた。
我々日本語母語話者であれば、文脈からすぐに理解できるであろう。
だが、学習者にはそこまでの経験はない。
私が一番理解して話せる外国語は中国語普通話である。
これはHSK旧3級程度の基礎も基礎の実力で中国に行き、生活で覚えていくこととなった。
ただ、語学を含む私の経験の多くは基礎が完全ではない状態で、初級を終わらせて中上級に飛んでいたりする。
つまり、中国語も基礎がなっていない状態なのである。
であるから、中国に住んでいたときも、文脈の観点で悩んでしまい、質問に対して「どちらの意味」であるのかを聞き訊き返すこともあった。
これについて、例などを記すと長くなるので、割愛しておく。
ただ、日曜日の昼前から自由時間が出来たときに、車で出かけながらNHK R2で中国語の連続放送を聴くのだが、「おぉ~、そういう区別があるのか!」と理解することも多い。
いまさらながら・・・。
これでHSK5級を持っていることが信じられないのだが、これこそがHSK6級に届かない原因のひとつであることは間違いない。
理屈でなく、体で覚えてしまえば、何の問題もない。
だが、ある程度の年齢になれば、初級の部分こそ体系的に覚えるしかないと思う。
どのように覚えるか。
やはり、必然的にそれと対峙する状態が必要なのであろう。
ちなみに、私の言葉に対するこだわりは「ちょっとしたもの」であったりする。
だが、小学3、4年生の頃、国語文法で「めんどくせぇ!」と思ったことがある。
ちんぷんかんぷんとは言わない。
ただ、「理屈というものが面倒」であった。
その反面、私の解答を見て、先生が「なるほど!」と唸ったり・・・。
確かに日本語に向き合う素質はあったようである。
それでも、日本語教師養成講座で、「俺はまったくついていけないー!」と頭を抱えることとなった。
一番痛かったのはやはり文法であった。
必死に勉強した。
ところが、教師になると、必然的に常に日本語について考えることとなる。
人生は不思議である。
日本語教師を離れて、技術の世界に戻っている私を支えているのは日本語に対する「ちょっとした」こだわりであったりする。