こんにちは、斎藤です。
前回は自他の境界線と思いやりの関係、
どうすれば境界線を引く感覚を育てられるか、という話でした。
今回は、集団主義や一体感を重視する教育を受けると、
より自他の境界線が引きづらくなるので自他の境界線が薄い人には合わない、という話しです。
(口を酸っぱくして言っていますが、すべての発達障害者にあてはまることではないかもしれません、私の記事は全部それを前提に書いています)
自他の境界線が引けていると自分と他人は別人格であるし、
人はそれぞれ違っていい、という感覚を持てています。
誰一人として同じ人間はこの世にいません、このことが感覚的に理解できています。
発達障害者は少数派に属すことが多く、人と違うことで自分の感覚が理解されにくので
それで自信を持ちにくいところがあります。
HSPの人もそうした傾向にあるのかもしれません。
ただ、境界線がしっかり引けて、人との違いをしっかりと受け止めていると、
少数派である自分のアイデンティティーを確立することができます。
私は多くの人とは違っている、でも違っていいし、それは私の個性だ。
私の独自の感覚で生きていってもいいのだ、そう自然と思えます。
根底には個別主義があります。
なので、一方で集団主義的な教育を受けると、
皆が同じがいいという価値観があるので、個人を明確に分けるという空気と真逆をいくわけです。
(集団主義的な教育というのよくみられる学校教育的な事を念頭に置いています)
一体感をもって同じ目標に向かっていくのが、良いことだ。
それは一方ではよいことなのですが、水と油のような相反する考えと統合できるくらい育っていないと、
自他の境界線が確立されていない人にとっては混乱してしまいます。
集団の中で、他者に同一化しなさい、共感しなさい、より定型の気持ちにシンクロしなさい、という方向性に行くので、
ある種リスクをはらんでいます。
ここで大事なことは、非定型として生まれると先天的に定型一般とは異なる思考・価値観の素地があります。
そうした相容れないものを持ちながら、より他者の気持ちにシンクロするように指導されるわけなので、
混乱して自分が分からなくなります。
価値観も本来的に自分に合わないものを取り込んでいくことになります。
発達障害である自分の独自の感覚を大事にせずに、定型一般の合わない価値観を重視することになっていきます。
これは、私の例なのですが、定型の価値観、特に他者への共感を重視する教育を受けた結果、
自分の生来的な特性に合わない価値観が形成され非常に生きにくくなりました。
自分が一時期していた恋愛活動も定型的な振る舞いを非常に多用していたので負担が大きかったですよね。
次回は、私が受けた集団主義的な教育の体験を書きます。
個人的な経験なので、
少し読んでみて合わないなと思ったらブラウザバックをお願いします。