続いては、言葉と世論を繋ぐということについて考えていきましょう。

 ここでいう世論とは、周りの人々であり社会一般の考えです。自分の言葉をそこに投げかけることは、その世論に変化を起こす切っ掛けとなります。

 感情と言葉を繋ぐことは自己の内面を見つめ、エネルギーとしての感情を放出することです。これは、あくまで自分のために必要なことです。つまり私的な価値が有ります。

 そして言葉と世論を繋ぐことは、この世の中のために必要なことです。ですので公的な価値が出てきます。

 

 自分の意志や考えを言葉に載せて世論に訴えかける。そのためには自分の感情からくる言葉をそのまま話す、では受け入れられません。

 そもそも聴き手はどのように考えているのか、聴き手にどの様に伝えるべきか、どうしたらこの考えを受け取ってもらえるのか、そのために言葉を選び、どの順番で伝えたらよいかを考え、その公的な意義を掘り下げる。まさに伝え方、その技術が問われるわけです。公のための意識、他者への思いやりが必要になります。

 

 これができることで、言葉は自分の利己的な思いから、社会に届ける訴えに変化します。この訴えこそが、自らが社会に対して行いたい活動に応援が集まり、社会をより良い方向へと導き変革を促す一言と成り得るのです。

 

 この技術を教えるところは世の中にはたくさんあります。方法論ですので体系化もできるでしょう。書籍やセミナーなどでそれぞれの先人が思い思いの技術を残しています。正解はひとつではありません。武道の流派の様なものです。だから自分にしっくり合うもの、真似てみたいものを試みてください。

 

 しかしその前提には、貴方自身の持つ感情からくる言葉で無くてはいけません。

 技術を身に付けた人が陥りがちなのが、「思ってもいないことをさももっともらしく話す」ことです。

 そうした話は聴いている方が、実は漠然とながらも気づきます。知らぬは本人だけです。そして「あの人口は上手いんだけど胡散臭いんだよね」という評価をもれなく頂くことになります。

 

 伝え方の技術とは頭で考えるものです。そしてそこに意識を向けるあまり、肝心の感情のエネルギーの発露を疎かにしている話し手は、世にたくさんいます。

 ブルース・リーのセリフ「考えるな、感じろ」ではありませんが、「考えろ、それ以上に(自分の思いを)感じろ」という意識はあってしかるべきでしょう。

 

 原始キリスト教では神は至る所にあるとされていました。そして聖書には「初めに言葉ありき」とあります。それは決して神話や比喩でも唯一神という外的存在のものでもなく、我々一人一人が世界を変えることができる存在(≒神)であり、その手段が言葉であるということを伝えたいのではないか、私はそう考えています。

 

 今は話などしなくても生きる不都合はない、AIが発達すればコンピューターが考えてくれる、そんな時代がもう来ています。人が最後に残した人間らしさは「感じること」だけなのかもしれません。

 想いを言葉に宿すこと、そしてそれを社会に訴え世界を変えること、それは動物にも霊的存在にもましてやAIにもできない、現世に生きる我々だけができること。生きて成すべきこと、なのでしょう。 

 だからこそ、その貴方の感情を、世論に繋げてみませんか。