あけましておでめとうございます(古のネタ)
ということで令和7年、2025年が始まってしまいました。
寒いぞオラァ!!!!
って感じの始まりは毎年のことでしょうか。
今年は遠回りの年とお告げが出ているので厄介そうですが、
何卒よろしくお願い致します。
ということで新年一発目、行ってみましょうか
比沼麻奈為神社
鎮座地:京丹後市峰山町久次
御祭神:豊受大神
旧社格:国幣小社(延喜式)
郷社(明治)
御朱印:あり
ということで今回は京丹後市の比沼麻奈為神社です。
『延喜式』神名帳には丹後国丹波郡の式内社として記載されている式内社で、
伊勢の神宮外宮と同じ豊受大神さまを祀っています。
鳥居の右側には明治に建てられたであろう「式内」の文字が入った社号碑、
そして左側には「元伊勢 豊受宮」と刻まれた石碑があります。
当社は豊受大神さまが天照大神さまに呼ばれて現在地に遷座するまでにいらっしゃったとされる、
元伊勢の一つとされている神社です。
明治の社号碑の横には大きめの末社が一つ。
雪除け仕様になってます。
手水舎は水が流れています。雨も降ってますけど。
表参道を真っ直ぐ進むと授与所があります。
鳥居前の社務所で伺うと宮司さんは外出されており、
数時間で戻るとのことだったので、昼食後にもう一回参拝。
神紋はドシンプルに丸に比沼麻奈為神社の"麻"を"真"と読む際の字を使っています。
石垣で組まれた高台の奥に社殿があります。
かつては平地にあったそうですが、兵火に遭うのを避けてより奥に遷座したと伝わります。
ここで痛恨のミスに気づきます。
丹後地方、というか北陸地方は雪が深い地域になるので、
冬場は本殿周りを雪除けの幕やガラスの壁が出来上がってしまい本殿が見えなくなってしまうことに!
拝殿内部です
かなり広めですね。引き戸の扉で四方が囲まれているように見えるので、
場合によっては全面外して外拝殿みたいな形になるのかもしれませんね。
本殿は覆屋のように大きめの建物になってます。
側面の屋根の妻下には柱が一本取り付けられており、
神明造と同じような形を取ります。
ちなみにこちらの社名には『延喜式』神名帳と共通して
比沼麻奈為神社となっておりますが、戻られた宮司さん曰く、
本来は比"治"麻奈為神社が正しいんだそうで、
この場合の社名は「ひじまない」となります。
そうなると有名な名前がありますね。そう「比治の真名井」です。
丹後国一宮である籠神社の奥宮、真名井神社などに代表されるようないる井戸、水源に付けられている名前です。
であれば当社にも井戸や泉があるのか、ということですが、
どうやら当社にはそういった場所はないそうです。
ではなぜ当社がそういった名前がついているのか。
それはこの場所が本来の「比治真名井」の由来になった場所、だからだそうです。
大和国の式内社はその多くが「○○坐□□神社」という社名で記載がされています。
この○○には地名、□□は神名であり、古来の形式を社名として現代に遺しています。
つまりその他の式内社においても○○神社は祭神名か、不明としてその地名の神様、という見方をすることができます。
ということは当社の場合「比沼麻奈為神社」は
比沼麻奈為(という地の)神(さまの)社という意味になります。
そのため当地自体が「比沼麻奈為」であり、井戸や泉の有無は全く関係がないことになります。
逆にその井戸や泉=比治真名井と呼ばれるようになるのは、
籠神社の奥宮である真名井神社が当社と同じく外宮の元伊勢の論社として挙げられ、
その影響によって元伊勢や同様の神明系神社の井戸に名前がついた、という見解のようです。
当社の御朱印には直書きにて「豊受宮」と書かれるのですが、
上記の社名の由来を元に想像するのであれば、
宮司さんにとってはこの「豊受宮」というのが神社としてつけられた名前という認識をしているのかもしれません。
ただし異説(籠神社)としては、後述する豊宇賀能賣命さまたちが地上に降り立ち、
水浴びをしたとされる泉を比治の真名井としています。
お稲荷さんですね。年末前のため注連飾りがついています。
こちらは地神塔です。
暦の雑節に社日に対する日待信仰「社日講」のシンボルとして建てられており、
多くは瀬戸内(香川、岡山、徳島と淡路島)の古い神社によく見られます。
関東圏などでは「地神」と刻まれたお塚が同様の信仰のものとされていますね。
なぜ瀬戸内に多いこの五角柱の形が丹後地方にもあるのかは謎です。
多いというだけで九州にもあったりしますが。
基本的にこの五角柱の側面に大己貴神、少彦名神、天照大神、埴安姫神、倉稲魂神の5柱の神名があり、
土地神さまに対しての信仰が社日講の基盤とされています。
ここからは境外の施設になります。
まずはこちら、清水戸です。
豊受大神(豊宇賀能賣命)さまは当社にて稲作技術を伝えた神様として伝承されており、
この井戸水を使って種籾を洗ったとされています。
種籾を洗うことで悪い米を避けて厳選された種を使うことができます。
こちらは神社から見て北側の集落の中にあります。
そしてこちらは月の輪田です。
先程の清水戸を用いて選別した種籾をこの小さな田んぼに蒔き、田植えを行って稲を育てたと伝わります。
立て札によれば種籾を洗いこの田んぼに蒔き、
そうしてできた種を天照大神さまに献上したとされています。
当地の歴代領主はこの伝説の地を大切に保護し、
取れた初穂を伊勢の神宮に奉納していたとあります。
異説ではこの地で祟りが起こることからこの田んぼからの年貢の取り立ては避けていたともされているようです。
またこの月の輪田は豊受大神さまの伝承に準えて稲作発祥の地として遺跡、遺構という扱いを受けています。
遺跡として保護され一切使われていないのかというとそうではなく、
5月の田植えの時期になるとこちらも従来の水田と同じく田植えを行います。
早乙女姿の女性たちによって御田植えの祭事のような形式で行われているようです。
写真などはwikiにてご参照ください。
ちなみにこの「月の輪田」という名前は田んぼの形が三日月形に由来するとされていますが、
『日本書紀』において月読命さまが保食神さまを斬り斃してしまったことによって
五穀が我々にも一般化するようになったと神話で語られており、
稲作と月にはその時点で関係があるように描かれています。
実際には稲作の一年の動き(田おこし、田植え、収穫)などが、
月の満ち欠けによって作られる暦(太陰暦)に準じた形で行われていることから、
暦による季節と稲作の時期で切っても切れない関係にあります。
さて、この辺りで豊受大神さま、この地方では豊宇賀能賣命さまのお話を少し。
『丹後国風土記』の逸文にて登場する神様で、その名前は丹後・丹波・但馬に分かれる前の「丹波」の由来になったとされるほどに
根強い伝承として残っています。
実際丹後国の式内社のうち、比沼麻奈為神社を内包する丹波郡の神社8社のうち、
比沼麻奈為神社、咋岡神社、多久神社、稲代神社、名木神社、の5社で祀られています。
泉で水浴びをしている際に羽衣を現地にいた「和奈佐の老夫婦」によって取られてしまいます。
羽衣をなくして天に帰れなった豊宇賀能賣命さまは羽衣を盗んだ老夫婦の娘としてこの地に定住することになり、
稲作と酒の醸造、機織り技術を伝えたとされています。
万病に効く酒を醸造したことから、祀っている多久神社などは「天酒大明神」と呼ばれていました。
また元鎮座地とされている神座尾が天女たちが降り立った地とされていましたが、
室町時代ごろに現在地へ遷座したとされています。
稲作と醸造、機織りと「衣食」の技術を伝えた豊宇賀能賣命さまですが、
十余年ほど暮らしたところで突然老夫婦たちから追い出されてしまいます。クズすぎる…
その後は丹後地方内を点々としており、
こちらの名木神社はその道中の地名として出てくる「哭木」の地に立つ神社とされています。
この地に生えていた槻の木で追い出された悲しみに暮れて泣いていたとされ、
「哭木」→「名木」神社となったようです。
「哭木」から移動してたどり着いたのが「船木」で、
現在この地には奈具神社があります。
奈具の社名は豊宇賀能賣命さまがこの場所にたどり着いたときに
「わが心、奈具志久(なぐしく)なれり」と語ったとされています。
ここでの"なぐしく"というのは心穏やかになると同義とされていて、
村を追放されてから心からちゃんと落ち着ける地についたということのようです。
奈具神社は京丹後市の当社と、宮津市由良に同名社があり、
両方とも竹野郡、加佐郡の式内社となっており、社名の由来はどちらも上記の風土記の内容に由来します。
由良の奈具神社の創建に関しては詳細が分かっておらず、
丹後一宮の籠神社に真名井神社があるため、この関連で船木の奈具神社から分霊されたと推測されています。
ちなみに比沼麻奈為神社と真名井神社、そしてこの奈具神社が、
豊受大神さまが天照大神さまに召集されて外宮の地に行くまでに鎮座していたとされる元伊勢に比定されています。
そして4社目に論社に挙げられるのが福知山市の豊受大神社です。
こちらは近所にある皇大神社とその奥宮である天岩戸神社が、
天照大神(八咫鏡)さまが内宮の地に鎮まるまでに各地を巡り、
その道中に鎮まった「吉佐宮」に比定される内宮側の元伊勢の一つとされています。
一応吉佐宮として丹後国に天照大神さまが鎮座し、
豊受大神さまが丹後国から呼ばれた関係でこの2社が近くか、関係ある地にあったということは推察できます。
その距離から籠神社はその奥宮の真名井神社、皇大神社はこの豊受大神社とつながりますが、
比沼麻奈為神社だけはどことも繋がりません。強いていうなら丹後町宮の竹野神社ですが、
竹野神社には元伊勢としての由来があまり残っていません。
そのため比沼麻奈為神社を比定社として有効とするならば、
必ずしも吉佐宮が近所にあったとは限らないようです。
こちらの宮司さんに他の論社についての見解を伺ってみると、
籠神社に対する真名井神社は外宮の伝承に対してのあとから生まれたものであり、
豊受大神社に関しては、この近隣に内宮と神話に現れる天岩戸があるというのは
伊勢御師がこの地で信仰を広める際に小さな伊勢の神宮を再現するために作った、と仰っていました。
今回の宮司さんとのお話で中でも特に印象的だったのが、豊受大神さまの伝承がほとんど明らかになっていない、
ということです。
『延喜式』神明帳においても比沼麻奈為神社はほかの神社と同じく国幣小社として記載されており、
豊受大神さまの元宮としての歴史は鑑みられてはいないようです。
伊勢神道によってまとめられた『豊受皇太神御鎮座本紀』の編纂がそのあとではありますが、
朝廷にとっては最重要の神社というわけではなかったのが窺えます。
そんな中、豊受大神さまについての伝承が残っている書物がそのかなり後に現れます。
それが『ホツマツタエ』です。
江戸時代に発見されますが現在でも記紀ほど重要視はされていないのが現状です。
しかし見方によっては、伊勢神道の発端のように外宮側の派閥が大きくならないように
その情報に規制をかけられていたようにも感じますね。
あ と が き
という感じでいかがだったでしょうか。
年内に元伊勢の神社をめぐる目的で当社にも参拝させていただきましたが、
宮司さんからいろいろなお話を聞かせていただきました。
その中でも一番強く感じたのが、神社界においても正書とされる『古事記』『日本書紀』だけでなく、
偽書と習う『先代旧事本紀』や一切触れられない『ホツマツタエ』であっても
知識として入れておく必要はある、ということでした。
歴史とは勝者が作るのが常であり、。そのすべてが正しいわけではないということですね。
特に記紀神話はいろいろな伝承や実在した一族の歴史などを組み込んで作られているものですので、
その傾向はより大きくあると思います。
正偽に関しての固定観念は持ってはならないことを学びました。
こうした学びのある神社巡りを新年もしていきたいですね。
それでは本日はこの辺で。
本年もなにとぞよろしくお願いいたします
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