こんばんは、私です。
1月ももう下旬になりまして、神社の方は大体が正月体制を解除したんじゃないかなと思います。
お疲れ様でした
普通の職種の方々も正月気分が抜けていつも通りに戻られていることでしょう。
今年もまた頑張っていきましょうね。
さて今回ですが、昨年までに元伊勢の神社を全て参拝し終えたので、
紹介していこうかなと思います。
ではどうぞ
笠縫邑① 檜原神社
鎮座地:桜井市三輪
御祭神:天照大神若御魂神
旧社格:官幣大社(延喜式)
大神神社境外摂社
御朱印:あり
ということで一番最初は桜井市の檜原神社です。
崇神天皇さまの御代に宮中から外に出た天照大神(八咫鏡)を連れて豊鍬入姫命さまが最初に鎮座した
笠縫邑に比定されているのが当社です。
風が吹いて手水舎がビッチョビチョに…
ここまでなみなみと貯まっていると手を直接突っ込んで洗いたくなりますね。
由緒書きには檜原神社と元伊勢の由来が書いています。
崇神天皇さまの御代に同床共殿でお祀りしていていたのを、
国内情勢が不安定になったのを機に、天照大神さまと日本大国魂神さまを宮中から外で祀ろうということになります。
双方を同じ場所で祀っていましたが、天照大神さまを笠縫邑に、
日本大国魂神さまはまた別の場所で祀りました。
大神神社の境外摂社ということで、大神さんからこちらまで山辺の道という遊歩道で繋がっており、
徒歩で歩いてきている方は大体そちらから来ていることが多いです。
山辺の道は当社も通過点であり、このまま北に伸びていき、
最終的には春日大社、奈良市のあたりまで続いていきます。
道中には石上神宮や奈良県護国神社などもも通りましたね。
大神神社の境外摂社らしく、本殿は存在せず三輪鳥居が建てられています。
実際笠縫邑で祀っていた際も、社殿を設けずに神籬を立てて祀っていたといいます。
建物ではなくその土地自体を神聖化するという自然信仰を起源とした神道の基本であり、
最も古い庭上祭祀の形態を取っていたことがわかります。
八咫鏡があった中で樹木を立てていたことになりますが、
どういう風に鏡を安置していたのでしょうね…
大神神社の三輪鳥居は祈祷か祭事へ参列して拝殿内に入らない限り見ることはできませんが、
当社は遥拝所として実物として見ることができます。
鳥居は一般的に神社の入り口、門としての役割として認識されていますが、
1枚目の写真のように当社の入り口には鳥居ではなく注連柱が置かれ、
三輪鳥居は遥拝所としての目的を明確にされています。
と言いつつ大神神社には日本で2番目に大きな鳥居が置かれていますけどね。
こちらが豊鍬入姫宮です。
三輪鳥居の左手に、建物ありで鎮座しています。
由緒書きには現在も皇室ゆかりの方が祭祀を行っている、とありますね。
どなたか参列をされているのでしょうか。
ちなみに大神神社の境外摂社なので大神神社よりあとに創建されたように感じますが、
実際はどちらも崇神天皇さまの御代に天災による日本情勢の乱れをきっかけに立てられているので、
ほぼ同時期ぐらいに創建されています。
檜原神社は同床共殿を恐れ多いと感じたことをきっかけに遷座し、
大神神社は同時期に日本大国魂神さまの祭祀を失敗したことを機に、
倭迹迹日百襲姫命さまへ神懸かりがあり、情勢の安定のために創祀することを目的として、
大和神社の創建と市磯長尾市に祭主の任命、
大神神社の創建と大田田根子の祭主任命を命じました。
そのため由緒書きによればかつては大神神社と同程度の境内を持っていたとあります。
授与所があり、御朱印やお守りは大神神社と共通していますが、
神札に関しては檜原神社と豊鍬入姫宮のものが用意されています。
ちなみに大神神社と元伊勢に関する書物も同じように置かれていました。
やっぱりどちらも神社の中ではかなり古い時代の参考にあたるので、
研究者による著者が多いですね。
山辺の道を挟んだ向かいには茶店があります。
今冬の期間だったのでにゅうめんがメニューにあります。
というかにゅうめんがあったかい素麺なのここ最近初めて知ったんですよね…
実家では味噌汁に入れて出てくるのは定番だったのに…
という感じで、檜原神社については以上になりますが、
笠縫邑に関してはある程度の地域は絞られているのですが、
その後裔社にあたる神社は論社がいくつか挙げられてます。
次に紹介するのもその論社の一つです。
春日神社境内社 笠縫神社
奈良県磯城郡田原本町秦庄
御祭神:春日大神?他
旧社格:不明
御朱印:不明
ということでこちらは田原本町の春日神社です。
檜原神社に比べるとかなりこじんまりとした神社になります。
というのも鎮座しているのが秦楽寺というお寺の境内南にあり、
独立した神社といった感じではありません。
この秦楽寺は京都の広隆寺や兵庫の大避神社を創建したことで有名な秦氏の族長
秦河勝によって、聖徳太子さんから下賜された千手観音像を本尊として立てられました。
この地も「秦庄」とあるように、秦氏一族の居住地だったとされています。
手水舎もこじんまりとした岩をくり抜いた簡素な形に柄杓が置いてあります。
中央が春日神社、右手が八坂神社、左手が稲荷神社となっています
ちなみに境内にありますが、当社の神宮寺として秦楽寺があったわけではなく、
あくまでも境内社として立てられていたとされています。
さすが神社も寺も建てた秦氏らしいというか、渡来系の一族ですが日本人が得意ないいとこ取りをしつつ両立させる認識を持っていたようですね
その3棟の社殿の右手に別枠で鎮座しているのがこの笠縫神社です。
当社が笠縫邑の比定地として挙げられている神社であり、
現在は春日神社共々多坐弥志理都比古神社の境外末社とされています。
当社を由来として近鉄橿原線の笠縫駅が存在しており、
周辺の施設を見ると当地の方が笠縫邑っぽさがありますね。
社殿の向かいにある絵馬殿の中には絵馬以外にも
春日神社の修理の記録などが掲げられています。
春日神社の宮司さんとして「多」の苗字が見えますね。
現在も多神社は昔から引き続き多氏の末裔が祭祀を行っているんですね。
ちなみにこうして絵馬殿の横には古くはありますが、
神社本庁のポスターが貼られていますし、ネットの奈良県神道青年会のHPには
当社が独立した神社としてページが作成されています。
池の向こうには歯龍王神さまのお社があります。
あ と が き
というわけでいかがだったでしょうか。
ちなみに笠縫邑の比定地には桜井市穴師の穴師坐兵主神社の境内に鎮座している
巻向坐若御魂神社も論社として挙げられています。
檜原神社での御祭神が天照大神"若御魂"神であるためか、
式内社である同社の論社に挙げられていることが元伊勢の比定社に挙げられているのではないかと考えられています。
巻向坐若御魂神社が応仁の乱によって焼失しなければもう少し場所の候補が出ていたのかもしれませんね。
という感じで、今後も遷座していった順番に元伊勢の神社を紹介していきますので、
よろしくお願いいたします!
それではこの辺で筆を置きたいと思います。
また次回
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