施されること、応えられないこと、死ねない夜

 朝、起きる。顔を洗い、ヒゲを剃る。
 金が無いから粗食である。朝起きてパンにマーガリンを塗って食べ、薬を飲み、必要そうな栄養はビタミン剤で摂ったことにする。寒いからとりあえず靴下を履き、財布を探してポケットに突っ込む。
 家を出て、アパートの廊下を歩いていく。

 毎朝思う。いったい何のためにこんなことをしているんだろう?
 何万回も問い続けた疑問の答えが突然降りてくるなんてありえない、不毛な問いだ。本当はいつこの人生が終わっても構わない。そのはずだ。
 だけど結局、私は死ねなかった。それだけが間違いのない事実だった。

 


 
 2年前、頭が悪すぎて経済的に破綻した。
 貧困な生活は、もちろん苦しいことは苦しかった。けれどそのときは今ほどには悲壮感もなく、婚活や筋トレに興じる余裕さえあった。貧乏の性で穴の開いたまま履いている靴下を写したり、冗談交じりに日々の困窮と転職活動についてTwitterに投稿したりしていた。

 ある日そこで知り合ったフォロワーの人と会うことがあった。「これ、持って来たのよねえ。」と紙袋を渡された。開けてみると、中には男性用の靴下が入っていた。思わず笑ってしまった。

 

「何ですか、これは。」

 

「気にしないで。ほら、写真みたからね。」

 

 紙袋の中には食べ物も色々と入っていた。こんな荷物、ここへ持ってくるだけで随分手間だったろう。しかし私がその人に何かを返すことなんて見込めやしないのに、どうしてそんなことをしてくれるのだろうと思った。

 その人は二児の母親だった。
 自分の子どもが困窮したときに、同じように誰かが手を差し伸べる世の中であって欲しいとでも望んでいるのだろうか。そんなことを考える人間が果たしているのだろうか、よくわからなかった。
 少なくともそのときはただ、「有難い。」と思った。

 

「頂戴いたします!」

 

「いえいえ、どういたしまして。」

 

 ある人は寿司を奢ってくれた。ある人はアマギフやプロテインを送ってくれた。ある人は本、ある人は財布、ある人はビタミン剤、衣料品、雑貨、私が書いた文章を人前に晒す前に読んで手直ししてくれたり、異性を紹介してくれたりする人もいた。

 私より遥かに貧困で、不健康で、恵まれていない人間なんて星の数ほどいる。誰の目にも留まらず、誰からも手を差し伸べられない人間なんていくらでもいる。

 たまたま私は痛がり屋で、少し声が大きくて、偶然奇特な人たちの目に留まった。そして賤しいことに、私は誰かに何か施しを受けるということに躊躇するようなプライドを持ち合わせていない。乞い食いのごとく、為されるままに為されてきた。


 この人生が徹底的に不幸だったなんて言えるはずはない。そう言い切るには、施しを受け過ぎたと思う。この世に救いは確かにあった。誰にも何ひとつ返せないけれど、せめて人生を再建して、「おかげさまで、まともに生きることが出来ました。」と言いたい、と確かに思っていた。

 

 しかしそうはならなかった。
 何度立ち上がろうと、何度やり直そうと、異性に愛されるようになるわけでも有能なビジネスマンになれるわけでもない。婚活をすれば日々コケにされ続け、転職活動も後少しというところで頓挫し、仕事も上手くいかなかった。それは性懲りもなく破綻の前後で何ら変わることの無い、相変わらず私自身だった。
 積み重ね方を間違えて来たのか、積み重ねたようで何も積み重ねてこなかったのか、タイミングを逸したのか、或いは全部かもしれない。

 今さら起業や相場に夢を見たりはしない。人生に一発逆転が有り得ないことも十分思い知っている。たださもしく、誰の特別になることもできなければ、無能で苦しいだけの日々がこれからも続いて行くんだろうな、という暗い気持ちだけが今も心を圧し潰している。

 30歳。無能な人間が方向転換をするには遅すぎ、孤独に生き続けるには余りに前途が長すぎると思った。

 

 そんなときに限って小さい不幸が立て続き、「人生はこれからもずっとこんな感じなんだろうな。」と思った。次第に「もうそろそろ死のう。」と思うようになったが、切っ掛けが無かった。
 そんなある日、親友に「もう殺して欲しい。一緒に死んで欲しい。」と頼まれた私は、彼女の命を奪った。私は死なず、罪に問われることもなく、ただ私に宛てた遺書だけがあった。

 

 あれからしばらくは、慌ただしい日々が続いた。
 働きながら種々の応対をし、遺族と会い、死を弔った。もはや何の為に働いているのか判らなかったけれど、遺書を果たすには相応の時間が必要だった。とにかく、それまでは何としても生き延びなければいけなかった。
 淡々と働き、淡々と過ごし、淡々と時間が経つのを待ち、時間薬の効くのを待った。或いはその先に新しい希望の到来することを期待していたのかもしれない。

 その間、彼女と過ごした日々を克明に記そうと思った。私の想い、彼女の想い、歩んできた道程、そういうものを書くことに意味があるかどうかは分からなかったけれど、それは自分の失ったものや他人から奪ったもの、仕出かした事実そのものと向き合う時間だった。事の次第を書ききった、と思う。

 しかし得たものは、「だからどうした。」という虚無感だけだった。

 結局、遺書の内容は果たせたものもあれば果たせなかったこともあった。けれどおよそこれ以上自分に出来ることはないんだと思ったとき、心の中の糸がぷつん、と切れてしまう感覚があった。糸の切れた凧は依る術を失った。昨年11月頃のことだ。

 

 ちょっとした約束を守ることもできず、仕事は簡単な作業でさえできなり、出社も覚束なくなった。自分はもうまともには生きられないんだと思った。そんなことはとっくに判り切っていたことではあったんだけれど、それでも、最期は狂って終わりたくないと思った。

 そして苦し紛れに、会社を休みバイクで日本一周することにした。本当のことを言えば大してやりたいことではない。過去の自分が確かにやりたいと言っていたことで、今の自分にも出来そうなことがそのくらいしか無かったというだけのことだった。

 だけど見たことのない景色を訪ね歩くうち、何か切っ掛けを掴めるかもしれないと少し、ほんの少しだけ期待していた。

 11月の時点で東北や北海道が雪に閉ざされていることは判っていたので、まずは近畿・四国を周遊し、バイク旅の経験やノウハウを積んだ。翌月、旅の経験を踏まえて装備を整え、日本海を進み九州を一周して主要な観光地をあらかた浚って日本半周を遂げた。

 およそ一か月に亘る旅を終え、そして福岡の新門司港から東京の有明に向かう大型貨客船に乗り込んだ。東京に着くまで二泊三日を要する。自分以外誰もいない大部屋のなか横になり、一昼夜天上を見上げ、これからのことを考えた。

 日本一周したいと思っていたけれど、半周したくらいで十二分なくらい絶景を見ることが出来たと思った。
 確かに旅は、それはそれで悪くはなかった。だけど所詮、景色は景色でしかない。感受性の萎え切った私の心には、それが美しいということが判っていても、結局のところ即物的なものでなければ響かないんだということも十分判った。
 所詮こんなものだと思った。これ以上はやってもやらなくても、どっちでもいい。冬が過ぎ雪が解け、東北や北海道を周遊したからって、きっと想像を上回るようなモノと出会うことはないんだろう。
 これまでの人生と何ら変わらない。いっとき乗り越えたところで、その先にあるのは間延びした苦しみと、余計に状況の悪化した現実だけだ。ここで終わるのも悪くないと思った。

 船の風呂に入り、洗濯したてのシャツに着替えた。そして靴下を履いたとき、そうだ、これをくれた人がいたんだと思った。怨嗟を撒き散らすだけの化け物になった私にも救いの手は何度も差し伸べられた。応えられなかったという事実は、それだけに「救いようのない人間である。」という事実に他ならなかった。しかしこれで彼らも私のことを見守り気に掛ける必要は無くなるのだ。
 船のロビーにある自販機で缶チューハイを買い、眠剤を三錠ほど呑み込んだ。親友が死ぬときに飲んだのもこのくらいだった。これ以上の鈍麻は要らないと思った。

 甲板に出ると、四方真っ暗闇の海を見渡すことが出来た。地平線の先にあるはずの空と海の境界は見えない。ひたすら深い闇の中、船は飛沫を上げて孤独に突き進んでいく。金網から身を乗り出して水面を覗き、数十メートル下に船の明かりに照らされ白い渦が巻いているのを見た。
 冬の外海の夜風は痛みを感じるほど冷たくて、きっとこの海に落ちたのならば、救う手立てはないのだろうと思った。あとは、薬が完全に効いてくる前に金網を飛びこえれば良い。金網は大して高くも無い、容易いことだ。それだけで、後は楽になれる。

 もう生きる意味はない。そのはずだ。そのはずだった。
 けれど甲板から海への高さに眩暈がした。寒さと、恐ろしさで足が膠着した。冷たさに金網を持つ手が堅くなり力が入らなかったが、強く握った手が離れることはなかった。
 なあオレは本当に死んでいいのか?待ってくれ、もう少し時間をくれ、何か見落としていることがあるかもしれない、頼む、もう少しだけ考えさせてくれ!誰にともなく祈った。酒と眠剤が少しずつ身体に染みわたり、思考が出来なかった。
 意識がどんどん落ちていき、身体から力が抜けていく。震えながら意識を保つのに歯を食いしばり、油汗が出た。
 彼女は……H子は、本当にこの先に進んでいったのか。あんなに容易く安らかに私の前で命を落とした彼女は、この暗闇の恐怖打ち克ったというのか。一体どれほどの絶望を抱いていたんだろう。どんなに生きることが苦しかったんだろう。
 彼女の命を奪った私が、自分の命を失うことが怖ろしいなんて間違っている。自分で死ねないクセに大事な人の命を奪ったのか?そんなのちゃんちゃらおかしい、これじゃ話が違うじゃないか。お前は屍人なんじゃなかったのか?!

 

「H子、ダメだ死ねない。オレはまだ、死ねない。」

 

 言い逃れしようのない失望感だけが胸を覆った。
 意識が遠くなった。息が苦しい。目がグルグル回り、吐き気がする。そのまま這うように船室に戻り、気を失うように眠りに落ちた。