いよいよですね。昨夜は、荒木村重の謀反、朝廷、足利義昭、そして徳川家康(あの時点ではまだ松平かな?)に、信長の横暴を知らされ、何とかしてくれと頼まれる光秀が、信長に掛け合うも、逆に感情を爆発させた信長に額を傷付けられましたね。

荒木村重の謀反は領民に過酷な年貢を強いた信長への反発から起こしたものという新解釈でした。信長が正親町天皇に退位を迫っていたこと、長くうつけ者と思われていた足利義昭がそうではなく、都をさらし者のように追われたことは、新資料で出てきたようで、荒木村重の謀反も年貢の問題があったのかも知れません。

徳川家康は、正室の築山殿と嫡男の信康が武田と内通していると疑いを掛けられ、信長に2人とも殺せと命じられたことが有名ですね。

この後、四国問題が出てくるんでしょうかね。


そして、安土城で、家康に対する饗応があり、その接待役だった光秀が家康と、天守閣に上る階段のそばの小部屋に入って話をしているのを、信長の小姓で、スペインだかポルトガルだかのカトリック神父から贈られた黒人奴隷の弥助が見ています。弥助は日本の状況を日本にいる外国人神父に逐一知らせており、それを神父のルイス・フロイスが「日本史」という本の中に書いているそうです。

この饗応の時に、信長は、魚が臭くて腐ったのを出したと光秀を叱責し、饗応役から下ろします。家康はその後、堺見物に出かけ、光秀には、毛利攻めの木下藤吉郎に加勢しろと命令が出て、本能寺の変が起きます。

この変で、私が不思議に思うのは、なぜ家康は伊賀越をしたのかということです。堺にいるのだったら、そのまま舟に乗って、熱田でも駿府にでも行けばいいじゃないですか。なんでわざわざ、明智の軍勢が待ち伏せしているかも知れない、あるいは武者狩りの土民がいるかも知れないのに、なぜ危ないと見られる伊賀越を選んだのか。

それは、明智の軍勢に討たれることがない確信、あるいは密約があったからだと想像しています。

何かで読みましが、実は光秀は、信長から、堺で家康を討つよう命令されていたと言う話があります。それに悩んだ光秀が、安土で家康に打ち明けた、と書いてある本がありました。まあ想像でしょうが、ありえないことではない。信長には、家康殺害を図るかも知れないという理由があります。1つは、正室と嫡男を殺させた恨みを買っているかも知れないという疑心。

2つ目は、毛利、四国、九州を平定すれば論功行賞を与えなければならないが、同盟者として扱っていて、自分の死後、息子たちは家康にやられてしまうのではないか、妻子を殺した恨みを果たされるのではないか、と言うことです。

さて伊賀越をして伊勢湾を海路渡り岡崎に逃げた家康は、そこで軍勢を整えます。いざ明智を討たんと出陣しますが、鳴海まで来て、ピタリと動かなくなります。部下が不思議に思い、進軍することを進言しますが、一向に動こうとしません。家康の家臣が書いた書き物に載っています。家でどれに書いてあったか、探していますが、見つかりません。

それはともかく、その間に、中国大返しをした羽柴秀吉(豊臣秀吉)が山崎の合戦で光秀を打ち破ります。私は、中国大返しも、いきなりそんなことができるのかと、疑問に思っています。

まず、光秀が毛利と同盟しようとする手紙を持った使者をたまたま捕まえて信長の死を知ったとされていますが、自分のものとなった大坂や堺から海路使者を送ればいいじゃないですか。瀬戸内海は、信長と戦っている村上水軍の海です。信長についた九鬼水軍がいたとしても、秀吉の軍がいる山陽道ほどは危なくありません。

中国大返しは、沿道の民家に握り飯などを用意させたといいますが、何万という軍勢の糧食を民家総出でやっても作れるものではありません。恐らくは、こういうこともあるかと、織田勢力下にある城に普段以上の米を運びいれておき、忍びを安土、京、大坂、堺などに張り巡らし、異変を察知したらすぐこれらの城に知らせ、早馬もしくは舟を秀吉の軍までやるよう前もって用意しておいたに違いありません。

秀吉も、うかうかしてられませんでした。始めは光秀、秀吉は重宝されましたが、天下統一の兆しが見えてくると、信長は息子たちや先祖代々の重臣たちが登用されるようになってきました。いつやられるかも知れないという恐怖が秀吉もあったと思います。

というわけで、本能寺の変やその後がどう描かれるか、大いに楽しみです。