今の日本の体制と政治の考察、職場で生き残る術の話 | あやきの趣味や考察ブログ

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主に政治経済を書いています。

日本国憲法 第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

これを元に当ブログは豊かな表現にて言論を行います。


東京在住の私は東京都知事選で投票に行かなければならないのですが、今回は特に行く気が起こりません。

巷ではまともな人はもう政治家になりたがらないって言われますがその通りでしょう。
体制側の政治家以外は、東京都知事選なのに国政でやるような大義名分を掲げてます。

都政を任せるにも、これといった方がいないので、やっぱり小池百合子さんが圧倒的な支持率となっています。

最近は陰謀論的な主張をしている政治家が増えてきてます。

不思議なことに皆さん、情報をそのまま引用しているだけで、私のように陰謀論を超えた理論を展開できる方はいないのかと少し寂しくなります。

しかし、人は毎日の膨大な情報を処理するし、深い思考をする癖がないから、情報の引用が一番無難なのだと思います。

そういえば、ネットを見ても2010年代半ばから陰謀論が普及してきたようで、それ以前はあまり見当たりません。
よく2010年までは全くそう言う裏のことが表に流れてなかったと言われていますが、やはりその通りで最近になってやっと表に出るようになったのでしょう。

しかし、陰謀論のラインナップは大方決まっています。

ある方が言っていましたが、アメリカの陰謀だけ暴露してそれ以外を見えなくしている。
つまり、ネットを使って誰かを悪者に仕立て上げ、本当に隠したいことを見えないようにして、陰謀論界でのスピン構図が完成しているように見受けられます。

恐らく、今回のコロナパンデミックで多くの方が陰謀論に傾倒したでしょう。
コロナを調べていく内に陰謀に行き着いて、様々な陰謀論をインプットし、結果的に錯乱してしまいます。


先ほど「検察側の罪人」という映画を観ました。

非常にリアルな社会を描いていて、現政権の社会風刺にもなっている内容でした。

主演は木村拓哉と嵐の二宮和也で、当初私はこういう内容はジャニーズがやるべきではないと思いましたが、逆に木村拓哉と二宮和也だからこそ多くの方々が観れるのだと気付きました。

内容は小難しくどんよりした雰囲気で進み、木村拓哉が演じる検事が自分の正義の元に事件を隠蔽し捏造し、挙句の果てに人殺しまでしました。

そこに二宮和也演じる一般的な感性を持つ検事が上司の木村拓哉とぶつかる構図です。


2時間の映画に収まりきらない内容なので、批評の通りよく分からない感じで終わりました。
正直内容はどうでもよくて、私が何を感じ人に伝えたいのか話します。

現政権が日本を戦争国家に引き戻す動きをしていること、これは現政権が掲げる憲法改正など、至る所でその動きに繋がるところはあります。

しかし、内閣を構成している大多数の閣僚が所属する日本会議や自民党というのは、基本的にはナショナリズムな保守派です。

日本をアメリカから自立させ国民を豊かにする。
という大義名分なら、やっぱり力を付けることは最重要課題です。

三島由紀夫がよく言っていました。
「民間人が何か行動を起こせば犯罪になる。」
だから彼は自衛隊を動かそうとしました。

今の北朝鮮政府も、軍との関係で非常に頭を抱えています。

それほど軍という物理的な力は政治的権力が大きいのです。

使わなくても力を保持してるのと、していないのとでは圧倒的に違います。

繁華街で店を出す時はケツ持ちのヤクザがいないとできないようなものです。
まだ個人単位である国内なら、個人に警察というバックグラウンドがありますが、国単位になる世界は違います。

よく安倍総理は空虚な器と言われていますがその通りで、上手く多方面の既得権益の顔色を伺いながら上手く政権を維持しています。

恐らく、まず長期政権を維持することが権力を付けることだと考えていると思います。

「やりたいことするにはまず金を稼いでから」という言葉を聞きます。

戦争はやらないけどまず軍事力を付け国家として再度自立する。
今、現政権はそれを実行しているような気がします。


私はよく三橋貴明さんたちの言論を見ていて被れてはいますが、私から言わせれば彼らは机上の論を唱えているに過ぎません。

体制側の方々の考え方は、エリート寄りに見えますが、やはり人情をよく知っています。

机上の論はあくまでも机上なのでリアルとは必ずしも一致しません。

私がよく言っている言葉があります。
「この社会にある仕事は、ほとんどが人の感情の処理だ」

実は机上の論で考えれば今ある仕事の大半は無くなります。
ここで言う仕事は業種職種ではなく、業務のことです。

極論、反体制側的な言論をする三橋貴明さん達が提言する机上の論というのは、実は体制側的な思考であるのです。

恐らくこの矛盾に気付いてる方はあまりいないと思います。

人々は日々の生活やルーティン、そして仕事や人間関係に追われて、膨大な数の案件をこなすため深い思考をする癖が無くなります。

そうすると、人々はなんとなく考えます。
反体制側な人たちは一般国民のために考えている。
体制側の人たちはエリートで一般国民のことを考えてない。

もちろんそういう側面も大いにあります。

しかし、やはり体制側も反体制側も、結局は同じ人間です。考えること感じることは似ているので、明確にどちらがどうと言えません。


だから、人は誰か代表を立てるのでしょう。

まとまった意見にならないからまとめる必要がある。
なんとなくで考えるから、イメージが固定されない相手に何もアクションを起こせません。

組織においても、キャラがある個人は強いです。


この世界は二元論で構成されています。

検察官と弁護士、どちらも本気で自分側の主張を通した時に初めて物事が浮き彫りになると思います。

しかし、今の日本社会のような権力者の独壇場ではこのバランスが崩れてしまいます。

三権分立は機能していません。
とは言っても、実は三権分立は無く、憲法では立法が主権となっています。
そして行政は最高裁の人事権があります。

つまり、法的に三権分立は無いのです。

そして、民主主義という国民への責任転嫁によって事実上の無責任国家となっています。

この日本社会には責任の所在がありません。
それは国家に依存したくない日本の意思があるのかもしれません。
日本国民はもしかしたらかなりのストリート無法地帯勝負なのかもしれません。
だから、人情が物を言う社会構造になっていて、机上の論が丸で通じない現象が起きているのです。


当ブログはビジネスの類でもあるので一つ社会で生きるコツを教えます。

権力者という存在、会社で言えば経営者や上司というのは意外と楯突く方が気に入られます。

言いなりになっているだけでは人として認識されません。
社会は人間関係なので、業務を最低限こなせるだけだとただのロボット、職場内の立場を良くすることや出世するには人として認識される必要があります。

上の人は自分の立場で物事を考えているから盲目なので怒りますが、実は怒られても人と認識させることが生き残る条件です。

現代社会では様々な制約が張り巡らされて、人と人の間に壁がありますが、本来人同士はぶつかって初めて感情が動くものです。

制約を守ってぶつからないようにしてるとフラストレーションが溜まり弱い者から排除されます。

弱い者は人の感情を動かさない人間なので、仕事を続けるには戦わないといけないのです。

私が好きな右翼に殺された政治家がいます。
昭和初期の大藏相、井上準之助が言った言葉。
「その場その場が常に戦いだ」