「欠けていません、その視点? 〜謝罪の本質〜」
いろんな事を考えさせてもらっているのかも? 何てことをふと感じた。
ザワつく世間。な、今。
このなんの為に、という解を示されない中での開会式。
ゴミ以下の言い訳を聞かされる毎日には辟易しかない。
とってつけたセリフに響く何かも、納得を得られる何かなんてのは無い。
そこに見えるのは 自己保身、有り体な こじつけ論 訳のわからん言い訳にしか聞こえない。
一番ムカつくのは、これで済ませちゃおう、済んじゃうかな、が透けて見えること。
ナメてるのか? に憤りは隠せない。
謝罪しましたから、を受け入れて のフレーズ。
トップのセリフである。
謝罪の本質とは 何か、を知らない? いや理解していない人にしか発せないセリフである。
この場合の謝罪、が成り立つのは その贖罪を背負い続けている人が 被害者から許された事により始めて成り立つ、これが本質である。
今からやります、出来れば直接会って では到底成り立たないし その贖罪を背負って生きてきました、とするなら パラリンピックに関わる資格が自分には無いと先ず考えるはずで オファーを受けることはあり得ない。
既に そこに答えは用意されている。
違いますか?
過去は過去、チャンスは与えられるべき、私もそう思う。
が それは過去を「清算したものだけ」が言っていいセリフだし 彼には当てはまらない。
被害者に許してもらえない場合もある。そこにせめてものの代価として法がある。
被害者と加害者の両方の許しの基準を 仮定し決定するものである。
最後の手段 最後の和解 時にそれは被害者にとっては足りないものだろう。
が それしか無い、これが現実であり 加害者としての審判がそこにある。
人が人を裁く難しさがここにある。
果たして その決裁は、その量刑は適切か、その背景はすべて考慮されたか、吟味されたか 数え挙げたらキリは無い。
が 少なくとも一つの区切りがそこで得られる。
それで被害者からの許しがあったかどうかはわからない。
勿論やったこと、は消えない、消えることは無い。やったことに対する一区切りの対価を払ったに過ぎない。
そこで一区切りはついたにせよ やった事と向かい合っていかなきゃならないことは事実。
じゃない?
なら このオファーを受けたことがそもそも間違ってないですか?
勿論選んだ側にも責任はあるし 知らなかったことを知った後でのこの対応策はゴミ いや被害者の方に対する冒涜だろうし 余りにも情けないものじゃない?
過去を過去にする為に何もやってない人を擁護は出来ない。する必要は無い、と私は思う。
簡単に謝罪はするが それだけ。
最近のこの国のトップの方々に屡々見受けられる言動にもそれは感じられる。
軽くないですか その謝罪?
謝れば済む そんな空気感を漂わせて無いですか?
それがここにも同様に感じられる。
謝罪には 責任が絶対的に伴うものだし その責任のありか、であり 責任を取って始めて成り立つものである。
だから社会は成立しているし 信頼関係は保たれる。
それが本質であり 絶対条件であるべきだ、と私は思う。
まぁすべて私見 私の思い込みかも知れないし ニュースタンダードとやらでは違うのかも知れない。
が 少なくとも そんなもんじゃあ人の心は動かせない。
人には響かないし 人は赦せない。
成り立たないんだな〜 心の中で、頭の中で そんなクソみたいな論理は。
一杯いるんじゃない? このコロナ禍の中で そう叫んでる人は ・・・
また ・・・
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