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コロナ関連の記事が書きづらくなってきた【責任とマジョリティ】

喜ぶべきことなのだろうか?

ここ最近、コロナ関連の記事を(以前とは違う理由で)書きづらくなってきた。

いまとなっては

「過剰なコロナ対策をやめるべきだ」

という記事を書くのは

「大谷翔平は素晴らしい選手だ」

という記事を書くのと同じような抵抗感がある。

つまりネットでも過剰なコロナ対策を疑問視する声のほうが主流になり、もはや“言うまでもない当たり前のこと”になりつつあるのだ。

その証拠にあのヤフコメでさえ、今やコロナ対策の不合理さを主張するコメントのほうが多い

(彼らと意見が一致するのはこの上なく不名誉なことだが)

街の美人・イケメン率が減少していることからもコロナ騒動の終焉を実感できる。

この調子でいけば、ここ2,3年で突如出現した美人・イケメンのほとんどが姿を消すだろう。

ただコロナ騒動初期から過度な自粛に反対していた人間からすると少し引っかかる点はある。

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あの人たちはどこに行ったの?

つい1,2年前まで、いわゆる反自粛論を展開していた者を

「思いやりの欠けた人間」

「最低限のマナーも守れないジコチュー」

として批難していた大勢の人間は一体どこへ消えたのだろうか?

「不快に思う人がいるならやめるべきだ!」

「リスクが少しでもある以上自粛するべきだ!」

とヒステリックに騒いでいた連中は今どこで何をしているのだろう?

(いまだにヒステリー状態が続いてる方たちもいるがピーク時よりは明らかに減っている)

「そんなのはごく一部の声が大きい人間で大半のマトモな市民はそんな事は言ってない」

という反論はあるかもしれない。

たしかにネット世論のほうが現実より過激で極端になる傾向はある。

だがあれは本当にネットの中だけの話だったのだろうか?

ネット世論と実際の世論

マスク着用率やワクチン接種率などから考えても、あれがネットだけの現象とは考えづらい。

実際身の回りにもやたらマスク着用にこだわる人間はいたし、トイレが使用禁止になってるコンビニも何度か見かけた。

真夏の屋外ですらマスクを外している人のほうが少数派だったぐらいだ。

昼のワイドショーで正義ヅラした芸能人たちが鼻出しマスク議員を袋叩きにしていた光景はいまだに覚えている。

その議員の主張には一定の合理性があったのだが、「非常識な大人」というレッテルを貼り断罪する論調一色だった。

しかも彼を糾弾してるスタジオの出演者たちは誰もマスクをしていないという噴飯ものの茶番である。

仮にいま彼と同じ言動をする議員がいたとすれば世間やメディアの反応はまったく違うだろう。

(あのとき鼻出しマスク議員を叩いてた芸能人の多くが世論と連動するようにコロっと主張を変えているのが恐ろしい……)

過去にはこんなアンケート結果もある。

ヤフーニュースのアンケートで行われた「ロックダウンするべきか?」という質問に対する回答
引用:朝日新聞世論調査
引用:朝日新聞世論調査

1つ目はヤフーニュースのネットアンケートなので属性にかなり偏りがあるかもしれない。

だが2つ目と3つ目の世論調査は大手新聞社のランダム調査なので、おそらく現実の世論とそうかけ離れたものではないだろう。

実際他社の世論調査でも似たような結果が出ている。

つまり“反自粛論者=身勝手な人間”と認識していたのはノイジーマイノリティではなくリアル-マジョリティだったと考えるのが自然だ。

(さすがにネット世論よりは攻撃性が弱まると思いたいが)

つい1,2年前ぐらいまでは反自粛論を展開する人間は少数派であり、「他人の命を軽視してるインモラルな人間」として批難されるのが当たり前だった。

他人への思いやりを主張する人間が、同じ口で一切の思いやりのない言葉を浴びせ続けた。

それも相手の主張そのものを吟味した上での反論ではなく、脊髄反射的な人格否定がほとんどだ。

だが今や反自粛論のほうが多数派になりつつある。

もちろんコロナ自体が消滅したわけではなく、単に“空気”が変わっただけだ。

この多数派の中にはかつて反自粛論者に心無い言葉を浴びせていた人間も少なからぬ割合で混ざっているんじゃないだろうか?

ボクの数少ない身近な人間ですらそういうケースが存在するのだから、実際には数え切れないほど存在すると思っている。

マジョリティと責任

ボクは彼らが意見を変えたこと自体を責めたいのではない。

矛盾のない人生を送ってる人間などボクも含めて存在しないだろう。

「君子豹変す」という言葉もあるように、主張の変更自体はそう悪い行動ではない。

むしろ考えを変える可能性が開かれているのは大事なことだ。

だが引っかかるのは

「彼らはかつての自分の言動を反省しているのだろうか?」

という疑問である。

山本七平の『空気の研究』に出てくるエピソードにあるように

「あのときはそういう“空気”だから仕方なかったんだ」

「あのときは“みんな”そうだったんだ」

という形で当時の言動を正当化しているのではないだろうか。

世の中のマジョリティに属してる“善良な市民”にはこの手の無反省的態度がよく見られる。

空気に抗って意見を主張する者にはそれなりの勇気と責任感が必要だが、“みんな”という大船に乗って安全な主張をしている人間にはそれが求められない。

船にただ乗っていただけの自分は無罪であり、乗員の数だけ責任感が分散されるのだ。

その証拠にコロナ以外の問題でも多くの“善人”たちは同じ過ちを何度も繰り返している。

これは人種も時代も関係なく、昔から延々と続いてる現象だ。

なぜ同じ過ちを繰り返すかと言えば、過ちを犯したという自覚がないからである。

(具体例を挙げるとまた長くなるのでやめておくが、ある程度の抽象化能力持つ人間ならいろいろな問題に今回のコロナ騒動との構造の類似性を見て取れるだろう)

19世紀ドイツの哲学者ニーチェのアフォリズムは彼らの恐ろしさを端的に表現している。

悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない

『ツァラトゥストラはこう言った』

コロナ騒動が終焉に近づいているのは喜ばしいことなのだが、どうも引っ掛かりがあるというのも正直な感想だ。