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『荘園』伊藤俊一 750年に及ぶ、日本の荘園の歴史を振り返る

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荘園を通じて日本の中世史を学ぶ

筆者の伊藤俊一(いとうしゅんいち)は1958年生まれの歴史学者。現在は名城大学人間学部の教授職にある人物。専門は日本中世史。

著作に『室町期荘園制の研究』。共著に『新体系日本史3 土地所有史』『気候変動からみなおす日本史4 気候変動と中世社会』がある。これまではどちらかというと専門家向けの著作が多かった筆者だが、本書『荘園』は、初の一般人向けの解説書となる。

荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで (中公新書)

2021年の9月に刊行された本書だが、売れ行き好調のようで、10月末時点で重版が確定。4万部を超えるヒット作となっている。

この記事から得られること

  • 750年の荘園の歴史を学ぶことが出来る
  • 土地、税制の視点から日本中世史の流れを俯瞰できる

内容はこんな感じ

貴族や寺社、武士などの支配階級が所有した私的な領域を荘園と呼ぶ。奈良時代から始まったこの制度は、平安時代末の院政期より爆発的に拡大。鎌倉時代に入ってからは成長著しい武家勢力に蚕食され、各地で軋轢を繰り返す。そして応仁の乱後、中央の権威が衰えると、遂に荘園制度は終焉を迎える。古代から中世末期まで。土地制度と税制の視点から日本史を捉えなおした一冊。

目次

本書の構成は以下の通り。

  • はじめに
  • 第一章 律令制と初期荘園
  • 第二章 摂関政治と免田型荘園
  • 第三章 中世の胎動
  • 第四章 院政と領域型荘園
  • 第五章 武家政権と荘園制
  • 第六章 中世荘園の世界
  • 第七章 鎌倉後期の転換
  • 第八章 南北朝・室町時代の荘園制
  • 第九章 荘園制の動揺と解体
  • 終章 日本の荘園とは何だったのか
  • あとがき

律令時代の8世紀から、荘園制度末期の室町時代後半まで、各時代の特色を本書では順に解説してくれている。

それでは、以下、各章ごとの概要を簡単にご紹介していこう。

墾田永年私財法と初期荘園の誕生

第一章では荘園制度誕生の経緯が示されている。

律令制で始まった班田収授法(懐かしい!)では、土地は国が農民に分配するものであった。班田は、農民の死後は国家に返却しなくてはならない。まだこの時代には、土地の私有は認められていなかった(皇族や、大貴族による古代荘園制とも言える、大土地所有は存在したらしい)。

現在から考えると国家主導の共産主義的な制度とも言えるが、土地の私有が許されないのだから、生産者にとってはモチベーションが上がらない。結果として、新規開発は進まず、荒廃地も増えていく。

長屋王(ながやのおう)による、百万町歩開墾計画も効果なし。続いて、723年には三代の所有を認める三世一身法(さんぜいっしんのほう)が登場。そして聖武天皇時代の743年、天然痘の大流行による生産人口の激減を受けて、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が発布。遂に土地の私有が認められるようになる。

これによって、有力貴族や、大寺院、神社による、個人所有の墾田の買収が進む。有力者の庇護を受けるために、開発した墾田を個人が進んで寄進する事例も増えていく。これが荘園のはじまりである。

田堵の誕生、免田型荘園の登場

第二章では摂関期に入り、免田型荘園が登場する。

9世紀に入り律令制は行き詰まり。政治体制的には藤原氏が権力を握る摂関政治が始まる。9世紀後半からのおよそ100年間は気候不順が続き、農村の荒廃が進んでいく。結果として、富豪層による土地の囲い込みが進み、彼らは中央の有力貴族と結びつき、荘園が更に拡大する。

地方では生産者を確保することが困難となる。人は逃げるが、土地は逃げない。こうして税の主体が人頭税から地税へと変わっていく。

この時代で興味深いのは田堵(たと)の存在である。田堵とは、雇われの一年契約で耕作を請け負うプロ農民である。彼らは土地に縛られず、待遇が悪ければ年季の途中でも耕作を放棄して立ち去ってしまうのだ。傭兵の農民版みたいな感じだろうか。

摂関時代、土地の所有は各地の国司(こくし)に委ねられていた。国司は課税額を決める権限を有し、時として、私領に対する税の減免、免田を行った。免田が各地に作られた理由は、やはり開発者へのインセンティブという側面が強かったようだ。減免を受けた私領が集まったものが免田型荘園となる。

しかし国司の人気は四年で、免田に関する許認可は、国司が変わるたびにリセットされしまっていた。国司が変わるたびに免田に関するやり取りを繰り返すのは面倒。ということで、中央政府による免田も増えていく。国司が関与できない、不輸の権、不入の権といった権利もこの頃に生まれている。

在地領主の登場

第三章は10世紀。気候が安定し、農業生産が増え始めた時代について。

古代から続いた国際的な緊張が緩和され、徴兵制がなくなった反面、地方では治安が悪化し、各地で反乱が発生する。源経基、平貞盛、藤原秀郷ら、後の主要武士団のルーツもこの頃に登場している。

この時代に入ると、国司は任地へ赴かず、現地の有力者に実務をゆだねるようになっていく。また、別名制(べつみょうせい)と呼ばれる、公領を再開発した有力者に対して、管理権、徴税権を与え、群郷を経由せずに国衙(地方に置かれた政庁)に直接納税する制度がはじまり、これが長期安定した農業経営の基盤となる。そして、職(しき)と呼ばれる、役職の世襲が許されるようにもなった(それまでは都度、任命権者に補任される必要があった)。

こうした背景から、在地領主と呼ばれる地元の有力者が台頭してくる。彼らは国衙を運営する政治力を持ち、別名を開発する経済力があり、それらを子孫に継承していく地域的な声望を持ち合わせていた。依然として地域の権力は国司ではあるものの、在地領主たちの成長は、その後の地域社会を変えていく。

白河院と領域型荘園の誕生

第四章は院政期での展開である。

藤原頼通の娘は皇子を生めず、長く続いた摂関政治が終焉を迎える。藤原氏を外戚に持たない後三条天皇は自身が政務を執ることを望み、藤原氏の権力が後退していく。この流れは白河天皇の時代に決定的となり、院政の時代へと突入する。

白河院はこの時代に君臨した圧倒的な権力者で、個人的な寺社の造営で国家予算に多大な負担を与える。寺社の造営資金を賄うために、白河院が始めたのが領域型荘園である。先ほど述べた、免田型荘園との違いをまとめるとこんな感じ。

  • 免田型荘園:貴族の権威を借りて国司の干渉、収公から守ってもらう。免田と開発予定地からなる。支配できるのは田畑だけ。寄進者-被寄進者の二階層。
  • 領域型荘園:上皇、摂関家の権力によって広大な領域を囲い込む。田畑だけでなく、山野も含めた領域全体を所有。不入権が刑事権、裁判権にまで拡大して、治外法権的な領域に。本家-領家-荘官のピラミッド構造。

また、この時代には知行国制が導入される。これは皇族や貴族、寺社に、特定の国から上がる税収を報酬として与える制度。知行国主は、当該地の国司推薦権も持つ。知行国主は当然、自身の息のかかった者を国司に任命するので、皇族や上級貴族による地方支配が進むことになる。

かくして、鳥羽院の時代には、全国の土地の半分が荘園になってしまったというのだから驚かされる。

守護と地頭、武士の時代の荘園制

第五章からは武士の時代である。鎌倉時代に入り、荘園制は新たな局面を迎える。

一時は、全国の半分を知行国としていた平家が滅亡し、その権力基盤は源頼朝に引き継がれる。頼朝は守護地頭設置の勅許を得ると、自身に従った御家人たちを各地に配置していく。武士たちは地域支配のために、暴力的手段の行使をためらわなかった。頼朝配下の御家人たちが権力を得るようになった結果として、知行国主や荘園領主の権力は低下する。

こうなると在地領主たちも土地を寄進しなくなるので、領域型荘園が作られなくなっていく。荘園と公領の比率が固定化(6:4くらい)し、荘園制は安定期を迎える。

荘園世界の魅力

第六章では安定期を迎えた、鎌倉時代の荘園の姿について、具体的なエピソードが紹介されている。この章が個人的にはいちばん読んでいて楽しかった。

荘園とは中央の権力が及ばない独自の小世界で、殺人や謀反のような重罪以外は、幕府であっても裁くことが出来ない。また、その土地で犯罪を犯したとしても、他領に逃げ込めば罪を問えない。債券も回収することが出来なかった。

社会が安定し、新田の開発が進む一方で、境界や水利をめぐる土地間の争いが増えていく。牛馬耕の導入、鉄製農具の普及。刈敷や厩肥などの肥料が登場。水田を使った二毛作も始まり、農業生産が増大していく。

鎌倉後期、年貢の代銭納化

第七章は十三世紀後半。鎌倉時代の後期の荘園世界が描かれる。

知行国主は存在するものの、鎌倉幕府は各地に守護を置いている。知行国主と地頭の利益は相反するので両者には争いが絶えない。

この時代、知行国主が、支配地域の管理を地頭に任せる地頭請といった支配形態が登場。また、知行国主と地頭の支配地域を完全に分離する下地中分方式も導入されるようになっていく。

しかし、13世紀後半の日本は、再び天候不順に見舞われ、各地で歴史的な大飢饉が発生する。寛喜の飢饉(1230~32年)、正嘉の飢饉(1258~60年)では、多くの農民が困窮し、人身売買が横行した。

また、この時代の大きな変化として、宋銭(渡来銭)の輸入による、貨幣経済の萌芽が挙げられる。貨幣経済が始まったことで、これまで年貢は現物を納めていたものが、代銭納化される。支配者と被支配者間の関係も、モノを媒介しないドライな間柄へと変遷していくのだ。

室町、南北朝時代、守護大名の台頭

第八章からは室町時代に突入である。

鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐帝による建武新政が始まる。御家人制度は廃止され、天皇による直接的な武家支配が試みられる。国司、守護の任命も天皇が行う。そして地頭は廃される。

建武新政が頓挫し、室町幕府が誕生すると、足利氏は配下となる武将たちに守護職を割り当て、その権限を拡大した。室町期の武将たちは、自身の守護国の支配力を強め、独自の勢力を築いていく。斯波氏、細川氏、畠山氏、一色氏ら、守護大名の誕生である。

とはいえ、室町幕府の力が安定していたこの時代の守護は在京制をとっており、守護大名当人は京都に居た。守護大名は配下の武将を守護代として置いており、これらも後に独自の権力基盤を築いていく。武家勢力の伸長と共に、土地の国人たちが、各地の寺社荘園を次々に横領していく事態が起こる。

応仁の乱、荘園制度の終焉

第九章では、遂に荘園制度の最期が描かれる。

15世紀でも気候は不安定で、応永の飢饉(1420~21年)や、寛生の飢饉(1459~61年)など、大きな飢饉が何度も起こっている。生産者人口が減り、土地は荒廃する。守護らによる荘園の横領も続いており、荘園制度は危機的な状態に陥っている。

応仁の乱を経て、室町幕府の権威が衰え、守護大名の力が更に増すことで、荘園制度は遂に終わりを迎えることになる。在京していた守護大名たちは、応仁の乱で荒廃した京都から、支配下の守護国へ戻り、現地での勢力基盤の確立を図っていくのである。

荘園とは何だったのか

以上、伊藤俊一『荘園』の内容をざっくりとご紹介してみた。現代人から見ると、荘園が存在した時代の仕組みを理解するのはなかなか難しい。

最終章で、筆者はこうまとめている。

日本の荘園の歴史、特に院政期以降の中世荘園(領域型荘園)の歴史は、小さな地域の自治権を最大に、国家や地方政府の役割を最小にした場合、何が起きるかという四〇〇年にわたる社会実験と言えるかもしれない。

『荘園』終章 p262より

中央の権力が及ばない、独自の小世界。貴族や寺社、武士たち、更には在地の領主たちによる重層的な支配構造の中では、土地それぞれに様々な社会が形成されていたであろうことが伺え、この点とても魅力的に感じられた。

土地開拓を奨励するために始まった墾田永年私財法が、荘園の発生を促す。荘園の制度が出来たことで、摂関家は莫大な財を築き、白河院以降の院政を支えることになる。そして武士の台頭は土地制度を大きく変え、より重層的な社会構造を作り上げていく。

歴史上の出来事はすべて有機的につながっている「荘園」という視点から、日本の中世史を俯瞰できる意味でも、本書はとても楽しく読むことが出来た。

おまけ

各紙面での書評もけっこう書かれているので併せてご紹介しておく。

(売れてる本)『荘園』 伊藤俊一〈著〉:朝日新聞デジタル

荘園 伊藤俊一著: 日本経済新聞

荘園がわかるとニッポンがわかる | レビュー | Book Bang -ブックバン-

今週の本棚:藻谷浩介・評 『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』=伊藤俊一・著 | 毎日新聞

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