ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「マイクロアグレッション」のこと

 「マイクロアグレッション Microaggression」――不勉強にも、初めて知った言葉だが、「あからさまな」差別とまではいかないが、曖昧で無意識かつ見えにくい(認識されずにいる)差別のことを包括する語らしい。
 TBSラジオのSessionのパーソナリティー荻上チキさんが11月25日放送の同じTBS「アフター6ジャンクション」に「連投」で出演し、一冊の本を推薦しながらこの語にまつわることを簡単に話している。ラジコで聞いた部分を起こしてみる。

https://radiko.jp/#!/ts/TBS/20211125180000

「マイクロアグレッション」――直訳すると「小さな攻撃」となるこの言葉は差別や人権研究の解像度を一段階上げてくれるキーワードです。私たちの社会は見逃しがちなこきおろしやとらえがたい侮辱にあふれています。30歳です、と年齢を伝えると、薬指をチラリと見られたり、女性の仕事だけ「女性カメラマン」、「女芸人」といった冠言葉がついている。男同士で仲良すぎなのは気持ち悪いとからかわれたり、抗議の声を上げると、落ち着けよ、と言われたり。こうした「小さな攻撃=マイクロアグレッション」の数々は日常の中のちょっとした言葉や行動や状況や環境の中に埋め込まれています。マイクロアグレッションは特定の属性などに対する否定的な表現を通じて、社会の中で「あるべき人」とそうでない「異常な人」の区別を人々に確認し、たたき込み、突きつけ、挫く役割を持っています。

 「マイクロアグレッション」ということば自体はすでに1970年代のアメリカで存在していた言葉なんですね。ただ、ここ10年ほどで(注目されるようになり)、この本の著者であるデラルド・ウィン・スーさんという方、心理学者でありカウンセラーであり、自身も中国系アメリカ人でもあるんですが、さまざまな研究成果を、ステレオタイプとかレイシズムとかと結びつけることによって、レイシズムとか差別と言うにはちょっと、「いや、そんなんじゃないんじゃないの?」と言われるかもしれないけど、確かにあるあのザラリとした感じというのを体系的に研究したの…です。 

 この本というのが、一年前に刊行されたデラルド・ウィン・スー『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション――人種、ジェンダー性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』明石書店 2020年12月)である。訳者の一人でもある立命館大学の中村正氏が刊行当時に書いた紹介記事もあり、読んでみたが、自分や他人がこれに気づいたときの反応にはぎくりとし、考えさせられた。
 朝日新聞の本の情報サイト「じんぶん堂」の2020年12月30日付記事より。

曖昧で漠然とした、認識しづらい差別と偏見――いま注目される差別概念マイクロアグレッションとは何か|じんぶん堂

マイクロアグレッションへの対応
 こうしたマイクロアグレッションへの対応は難しい。
 ①曖昧さがある――マイクロアグレッションが起きたのかどうか断定できない、②応答しづらい――どう応答すればよいか分からない、③時間がない――応答できるようになる前に出来事が過ぎ去ってしまう、④否定する――厄介なことなので自分を偽って何も起きていないと信じ込もうとする、⑤行動への無力感が生起する――「どうせ、何も良いことはない」、⑥結果を恐れる――そんなことに反論、抵抗すると別の非難が待っているという思いが生起する等して苦慮する。
 「自分が繊細すぎるのだろうか」「考えすぎだろうか」「相手には本当に悪意があったのだろうか」「相手の無知につけこむことになるのだろう」と思み込む、悩むこともある。
 マイクロアグレッションに気づくと自責の念さえわくこともある。

 さらに厄介なことがある。
 相手にそのことを指摘した後で、謝罪がなされることがある。しかしよく見ると、その謝罪においてもマイクロアグレッション的なものが展開されるケースがある。「あなたを傷つけてしまったならごめんなさい」「気分を害したようなので謝ります」「どうやら誤解を招いたようでした」等である。
 マイクロアグレッションによって相手を傷つけたことやそうした行為や発言をしてしまった自己が立ち現れてこない。加害が内省され、社会の問題に向き合おうとする謝罪ではない。そうではなく、傷つきやすい被害者が話題になっている。
 あなたの感受性、考え方、さらにいえば脆弱性に由来する傷つきなので、その点について謝罪しますと言わんばかりなのである。「そういう意図ではなかった」「あなたを差別するとか悪気はないんです」等と言っている。自分の行動は脇に置き、相手の弱さを前景化させ、被害をそうしたものとして定義し、謝罪しているのでそれを受け取って欲しいと要請している。
 よく似た言い方として、「被害を受けた当人がハラスメントだというのだからその限りで謝罪します」という言い方もある。自らの行為を否認はしていないが被害者に判断を委ねている。さらに「意に沿わないことで被害が生起するというのが最近のハラスメントの定義であり、被害者の主観的な感情によるということは理解している」とも分かったようなことを言う。物わかりのよい丁寧な加害者である。

日本の中にあるマイクロアグレッション
 マイクロアグレッションは「社会構造や制度の問題」としてわかりやすく現れるのではなく、個人間の日常的で微細なコミュニケーションのなかから立ち現れる。マイクロという言い方は、日常的行動のなかにこそ大きな重量感をもつ社会が埋め込まれ、立ち上がってくるという意味である。マイクロアグレッションを適切に定義し、言葉を与えていくことで語られていない社会が上昇してくる。

 翻訳作業をとおして考えるべきだと思ったことは、日本におけるマイクロアグレッションの現実である。
 一緒に訳していた在日コリアンのメンバーが話題にしていた。「留学生ですか?」「日本語うまいですね?」「日本に何年居るのですか?」と聞かれることが多い、と。マイクロインバリデーションそのものである。この瞬間、無化された感覚をもち、「他民族や他人種がいないものとされている」ようだとも言う。
 さらに「私には本当に偏見などない。どうすればそれが相手にわかってもらえるだろうか」という質問をされることもあったという。
 問題はマジョリティのもつ無自覚さである。スーは、そのことを見通して、マイクロアグレッションは加害者に対しても有害な影響を与えることを指摘する。加害者が現実に対する歪んだ感覚をもっていること、共感し、理解するためのある種の感情の欠如があること、異なる属性をもつ他者への不安の投影があること、多様な他者へと開かれた関係形成ができていかないこと等を指摘する。
 こうして、マイクロアグレッションへの気づきをとおして支配と抑圧のマクロレベルのシステムが、加害者のミクロレベルの精神と行動、相互作用の様態にどのような影響を与えるかという点を浮かび上がらせている。
 個人はどのようにして、なぜマイクロアグレッションを行うのか、なぜ加害者はマイクロアグレッション行為における自分の役割を認識することが難しいのか、微細な侮辱行為を行った人々にとってその負荷はどのようなものなのかが解説されている。マクロな暴力を支え、無知と善意をとおして偏見を強化していく加害者の心理社会的コスト(感情的、行動的、精神的、道徳的)についても扱っている。訳出しながら日本人男性で教授という地位にある私も加担しているかも知れないと気づく。

<以下略>




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