ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

事件報道雑感

 何か事件が起こると感じることですが、メディア報道にはある種のストーリーに乗せたがる傾向があります。まずは善人と悪人の区別です。多くの人はそのどちらでもあるし、どちらでもないような「ふつうの人」だと思うのですが、メディアはそういうのを好みません。おもしろいかどうか、視聴者や読者にウケるかどうか、そこがポイントです(最近はこれに官邸ウケするかどうか、政権党にとっての有利・不利まで加わっているようですが…)。
 容疑者が「善人」であることはほとんどありません(今や「義賊」のような話はないに等しい)。「悪人」となれば、徹底的にあらを探し出します。どんな人でも叩けばホコリのひとつやふたつは出てくるでしょうが、相手が「悪人」となると、誰にでもあるようなホコリが人生を左右する重大な「汚点」となり、それが「悪人」の「悪」たるゆえんというような話へと発展しかねないのです。

 先日の東京大学の正門前で起こった傷害事件では、容疑者の高校生が通っている学校から「孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたと思われる」とのコメントが出されましたが、「孤立感」は事件の重要な出発点(キーワード)です。先月の大阪のクリニック放火事件の容疑者についても、「社会から孤立する中で、多くの人を巻き添えに、みずからも死のうとして事件を起こした」という警察の見方が報道されています。
 しかし、「孤立感」があれば人を巻き添えにして死のうと思うというものではないでしょう。容疑者の高校生の場合、これに「医者になるため東大を目指して勉強していたが成績が上がらず…」という本人の供述や、「成績が落ちて本人が目指しているところに達しておらず、進路で悩んでいたのは事実」という学校の教頭のコメントなどが追加されます。成績不振や進路の悩みというのもストーリーには乗るかも知れませんが、東大受験に対するこだわり以外はありふれた話です。
 この東大受験については、事件後、ツイッター上に「医師になるなら他の医学部がある」「東大以外にも大学はある」などの声があふれたとのことですが、至極当然の話です。しかし、いわゆる超がつく進学校で「挫折」を経験した “先輩たち” から、容疑者の気持ちに一定の理解を示すコメントなども報道され、東大受験への執着が、事件の背景の最重要ポイントのようになっていきます。
刺傷事件1週間 少年「東大理3」に執着 「成績上がらず自信なくす」 | 毎日新聞

 超進学校に特有の状況がわかると、次の「標的」は家庭です。すでにインターネットには誹謗中傷の類があふれていますが、「何が何でも東大進学だ」と日頃から親にプレッシャーをかけられていたというのならともかく、家庭でのしつけや教育を安易に事件の原因に直結させてよいものでしょうか。当の親にもたぶん何が「原因」かはわからないというのが実情でしょう。自分におきかえて考えてみれば想像のつく話だと思います。

 社会学者の宮台真司さんがインタビューで事件についてコメントしています。事件の真相は個々それぞれでしょうが、事件を個人のせいにしないのが社会学という学問の立場でしょうし、諸事件の「共通部分」や社会的背景を理解することは社会正義や政策の実現にとって大切なことだと思います。
 朝日新聞1月20日付記事より引用させてください。

相次ぐ無差別襲撃、宮台真司さんに聞く 「別の生き方」への想像力を:朝日新聞デジタル

 ……人を殺せないのは、殺してはいけない理由があるからではない。殺せないように育つからだ。そうした感情面の発達は、どんな人間関係の中で育ったかで決まる。

 その成育環境が1960年代から90年代にかけて激変した。子どもはそれまで①異年齢集団による外遊びで共通感覚を養い、見ず知らずでも互いを仲間になりうると感じる対人能力を培った②親や教員が与えた思い込みが、親戚のおじさんや近所のおばさんの「ナナメからの介入」で緩和された③教室には団地・農家・商店・ヤクザなどの子が集い、互いの家を行き来していろんな生き方を学べた④家族の外でも全人格的に扱われ、SNSのいいね!の数で代替できない尊厳(自己価値)を持てた。
 ところが、60年代の団地化で地域が、80年代のコンビニ化で家族が、90年代のケータイ化で関係全般が、空洞化した。土地に縁のない「新住民」の不安から遊具撤去や校庭ロックアウトが進んで外遊びが消え、地域が不信ベースになって親以外の大人との交流が消えた。親と教員とネットと友人との希薄な関係だけが残った。
 商店や農家の自営業が衰退して同質化した教室には、外遊び消失と塾通いで希薄な関係しかなく、出会う大人は、親と、親に媚(こ)びた教員だけ。団地化で育った親がコンビニ化の子を育て、コンビニ化で育った親がケータイ化の子を育て、ケータイ化で育った親が今の子を育てる3世代の流れで、親の価値観が狭まり、それに閉ざされた子が拡大再生産されてきた。
 子は、親の自己実現のダシにされ、進学校に入れと尻を叩(たた)かれるが、かつてと違ってその価値観の外が分からない。地元の公立で優等生だった子も進学校に入れば、多くは教室で「ただの人」。自分を価値のない存在だと感じる。それで終わりではない。疑似共同体であるのをやめた会社でも、希薄な関係の中で置き換え可能な存在で、競争に負ければ「ただの人」。

 だが、人の感情はこうした過剰流動性に耐えられない。「死刑になりたい」「誰でもよかった」と本人が語る無差別な加害行為の背後に、加害者自身が置き換え可能な「誰でもいい」存在として扱われてきたことによる怨念がある。
 背景には、30年間続いてきた絶えずクビに脅(おび)える非正規雇用化や、絶えずハブられること(仲間外し)に脅えるSNS化もある。それをもたらしたグローバル競争とテクノロジー化は今後も確実に進み、「誰でもいい人」が量産される。

 ……
 豊かな感情を育んだ生活世界は生産性が低い領域とされ、今後も市場化される。流れを止めるのは難しい。だからこそ大人が目の前の子どもに接する姿勢を改める。たとえ親の経験値が低くても、多様な大人に接する機会を増やし、様々な映画や音楽に接する場を与え、自分の日常とは違う世界があるという想像力を培う。周囲の子らに「人生の選択肢は一つじゃない、横道にそれても別の生き方がある。人間万事塞翁(さいおう)が馬。面白くて幸せな人生はたくさんある」とメッセージを伝えてほしい。




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