ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

良知力さんを読んで

 良知力 らち ちから さんという早逝した社会思想史家の著書『向こう岸からの世界史』(未来社 1978年10月刊)を読みました。1848年のヨーロッパ、特にオーストリア・ウィーンの革命をめぐる話なのですが、学生の頃に一度読んで、よくわからず、就職してから、もう一度読んでも、やはり難しく、今度で三回目です。別の良知さんのエッセイ集も読んだことがあって、こちらはさくさくと読めるのですが、『向こう岸』の方は、立ち止まることがたびたびで、何回読んでも難解です(駄洒落でなく!)。マルクスを含むヘーゲル左派の周辺にあった人々や社会主義者のことがわからないところが壁になっている感じもしますが、表現や構成にけっこう凝った面があるので、小生のように素養の乏しい者にはハードルが高くて、解るようになったらもう一回おいで、と言われているような感じです。かりに4回目があっても、たぶん大差なくこのままでしょうけど。

 でも、今回読んで、改めて実感したこともあります。自身が良知さんが病気で亡くなった55歳をとうに過ぎた年齢になって、ものを書くことの意味を少し考えさせられました。良知さんは「あとがき」でこう書いています。

……筆者の心底を流れている言いたいことというのは、当の本人にとっても必ずしも明確な姿はとってはいない。それは、思想化された主張というよりも、むしろ自分の心のひだに積み重なってきた一つのわだかまりだからである。そしてそのわだかまりは、私なりの精神の現象学を展開しようにも展開しえないいらだちとつながっている。私の両親は故郷をはみ出て東京に流れてきた貧民の部類に属するから、本書のなかでモティーフをふくらませていくなかで、私もいつしか自分の心の生誕の地に発する経験の軌跡を描いていたのかもしれず、この小さな本をとおしていつしか自分の育った古巣にたちもどろうとしていたのかもしれない。
……
 向こう岸などと言わなくとも、川向こうという使いなれた言葉がある。もちろん相手をばかにした言葉である。おまえたちは川向こうじゃないか、なに言ってやがる、こっちから見りゃてめえたちこそ川向こうじゃねえか、というわけで、悪童どもは罵りあい、石を投げあう。だが、ここでは、自分が川向こうの住民だからといって、川をはさんで石を投げあうわけにはいかない。むしろ、自分が川のこちら側に身を置いているからこそ、自覚的には、そして理念的には向こう岸に達しうるのだということ、そのことをひたすら主張しなければならぬ。向こう岸にいて向こう岸の教養を誇る者が、どうして世界史的に自覚的たりうるだろうか。いまや川向こうのあちらこちらで、世界史を自覚的にとらえかえす力が育っている。……私は、そのあたりまえのことを具象的な歴史をとおして何度でも主張しなければならぬ。
……大きな手術をこれまで三度も受けて、体がずたずたにされてみると、なによりも、自分を襲ってくる索漠たる想いとたたかうことなくしては、一言半句といえどもものが書けなくなってしまった。人間の本質的価値への確信をぬきにした歴史研究などありえぬと、いま私は自分の実存の崩壊感覚をとおして感じることができる。
(良知、同書、277-282頁)

 上の文を書いたのは1978年8月26日の日付になっています。それから7年余り後の1985年10月6日夜、遺作となった『青きドナウの乱痴気』(平凡社)の「あとがき」の末尾には、「万感の想いは……グイと喉から呑みこんでしまおう。シュトラウスが聞こえないのが残念だ。」と記されています。亡くなったのは、それから2週間後の10月20日です。

 生きているあいだに何をしなければならないかと考えながら毎日を過ごしているわけではありませんし、ブログで何かを書くのも趣味の延長に過ぎません。しかし、趣味の延長だと言っていられるうちが「華」なのかも知れません。
 自身の想いや伝えたいと思うことはいろいろありますが、それがあらかじめあって、書くという行為が成立するわけでもないでしょう。どんなに拙くても、その時々の、その場一回限りの、何かに駆られた文章ゆえの意味や重みというのがあると思います。というか、書いているうちに書きたいことがわかってくることだってあります。

 シュトラウスの名前が出てきたので、良知さんのエッセイからひとつ引用します。

 ウィーンの町はいつもどこかでヨハン・シュトラウスの調べが流れている。ウィーンはワルツの都である。だが私にとっては、ウィーンはワインの都であった。数年前妻子と共にウィーンに滞在したときも、ワインが私にとっての唯一の楽しみであった。私どもの住居の隣に小さな食料品店があった。ウィーン子らしく人のよい、ふとったおやじが店主であった。妻や私が夕方店に行き、ワインを注文すると、任せておけというように黙って店の奥から2リットル瓶を取り出してきた。日本流にいえば一升瓶である。それにはいつもレッテルが一枚も貼っていなかった。産地直輸入、したがって税金の方がどうなっていたか、よく知らない。いずれにしても安くておいしい地酒であれば、こちらにとってはありがたかった。円に換算すると、一瓶5、600円だったろうか。
 安いから飲みすぎて、そのためにそうなったわけではないのだが、やがてウィーンで入院し、腹を手術される羽目におちいった。友人たちはもちろん、あいつは飲みすぎてついに腹を切ったと噂の花を咲かせていたようだ。決して軽い手術ではなかったから、35日ものあいだ病院で日を送ることになった。手術は成功したのだが、体力のおとろえはいちじるしかった。もともと50キロ少ししかなかった体から、すべての肉がそげ落ちて、ついに骨と皮の42キロになってしまった。食欲はまったくなかった。親切な看護婦たちが入れ代わり立ちかわりやって来て、私をおこりつけながらスープを飲ませようとした。しかし申しわけないが胃がそれを受けつけない。
 ところがある日、食膳にコップになみなみと注がれた赤い液がのっていた。一口飲んでみると、なんと上等のワインではないか。これはもちろんあまさずいただいた。おかげで食欲も出てきた。手術直後の病人にワインを飲ませるとは、さすがウィーンだ、と思った。こうして私の想い出のなかで、ウィーンはいつもワインの都なのである。
(良知『魂の現象学』 平凡社 209-210頁)

 良知さん、“向こう岸” でもワインを飲んでるだろうなあと思いながら、此岸より手を合わせます。




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