この記事のポイント!

・魚住は、古代から西国と畿内を往来する船の重要な港町「魚住の泊」
・毛利氏からの援軍物資を魚住から陸路三木城へ運び入れていた

・三木合戦後、羽柴軍により凄惨な報復があったと伝わる

魚住と魚住氏

明石魚住という場所は、古くからの港町でした。
昔は港町を「泊(とまり)」と言い、瀬戸内海は中央政権のある畿内と九州・朝鮮・中国との往来の重要ルートでした。

奈良時代に行基が開いたとされているのが、「摂播五泊」です。
・室生泊 – たつの市御津町
・韓泊(福泊) – 姫路市的形町
・魚住泊 – 明石市大久保町
・大輪田泊 – 神戸市兵庫区
・河尻泊 – 尼崎市神崎町

この港町に居を構えたのが「魚住氏」。
魚住氏は元を辿れば、播磨・備前・美作の守護であり、室町幕府の四職でもあった赤松氏の一族と伝わります。(他は、一色氏、京極氏、山名氏)

その一族が魚住に住み始めたことで魚住氏を名乗りました。魚住氏は、赤松氏に従い各地で活躍したと「播磨鑑」にあります。

三木合戦で、物資補給ルートの重要拠点となる

三木合戦の時には、魚住城には魚住頼治、息子の吉治が城主でした。
先述のとおり、同じ赤松家の一門である別所氏が織田家に謀反した際に一緒に別所方となり、羽柴軍と対峙することになります。

籠城戦を展開する三木城・別所氏は、毛利氏などから必要な兵糧や武器などの物資の運び込みを行います。高砂や加古川、摂津から淡河などいくつかのルートがありましたが、魚住も重要なルートの1つでした。

実は、魚住城がどこにあったのかについてはまだ議論があります。
現在、市の看板がある場所(現在は公園)は、三木合戦当時、物資を運び込むために有用な場所を選んで臨時的に使った砦のようなものではなかったのかという説もあります。または、住吉神社のあるやや北側一帯に館があったのではとする話を聞いたこともありますが、さて謎のままです。

毛利軍は兵船200艘以上で多くの物資をここに陸揚げしました。魚住氏差配の元、この地に住んでいた卜部家などが中心となり住民800人以上を動員、清水川から岩岡・稲美を抜けて三木の這田に至るルートや、遍照寺・岩岡を抜けて三木の法界寺・雲龍寺のルートもあったと言われています(参照:えいがしま歴史まちあるき 著・江井ヶ島文化遺産冊子作成委員会)

戦のあと

合戦の結果はご存知の通り、三木別所氏の降伏により終わりました。
その際、物資支援で苦戦を強いられた羽柴軍は、魚住にも報復措置をしたと伝わります。
リーダー的存在であった卜部安知は磔となり、周辺は焼き払われ、協力した住民たちも女子供関係なく捉えられて処刑されたといいます。(あくまでも伝説です)

魚住にある遍照寺様には、別所長治公の供養墓があります。
ここに供養墓が建つほど、魚住氏そして住民たちは別所氏を慕っていたのでしょうか。

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関連スポット

史跡名場所概要
魚住城兵庫県明石市魚住氏の居城と伝わる城。三木合戦の折りに臨時に創られた砦とも。
遍照寺兵庫県明石市三木城主・別所長治の供養墓がある。
光触寺兵庫県明石市 秀吉が陣を敷いた寺と伝わる。秀吉の腰掛松が伝わる。

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