この記事の内容は、様々な資料をもとに書かれています。

 

内容の中には一部ないしは全体を通して、資料に基づく偏見や誤りがある可能性があります。また、筆者自身による偏見や誤りがある可能性も当然否定できません。

 

できる限り公平かつ事実に基づいて記事を書きたいと考えていますが、この点を踏まえていただけましたら幸いです。

 

今回のテーマはサロモン・モレルです。

 

 

ユダヤ人でありドイツ人やポーランド人を対象に強制収容所の所長を務めたサロモン・モレル

はじめに

 

今回は英語版のサロモン・モレルの記事を翻訳しました。個人的な資料として作成しましたが、情報をシェアできれば幸いです。一般にはあまり知られていませんが、サロモン・モレルというのはポーランド共産党の強制収容所のユダヤ人所長です。一般的にはユダヤ人が強制収容所に収容されたというイメージがありますが、同じようにユダヤ人もまたドイツ人やポーランド人、ロシア人を強制収容所に送り込んでいました。このような事実をメディアも学校も指摘することはありません。

 

私たちはこの事実を知らなければなりません。

 

強制収容所のユダヤ人サディスト

 

サロモン・モレル(1919年11月15日-2007年2月14日)は、ポーランド人民共和国、公安省の役人でした。モレルは1956年までNKVDとポーランド共産党当局により運営されていた強制収容所の所長でした。

モレルは1944年、ルブリン城にあるソヴィエトNKVD刑務所の監視員になりました。1945年の多くをポーランドのシフィエントフウォヴィツェにあるズゴダ労働キャンプの所長でした。1949年にはヤヴォジュノ強制収容所の所長となり、「ポーランドの10月」による1956年の閉鎖まで多数の強制収容所の所長を務めました。その後、カトヴィツェの刑務所長として働き、政治警察であるMBPの大佐にまで上り詰めました。モレルは元スターリン主義者の粛清に見舞われた1968年のポーランドの政治危機の時に解雇されました。

 

ポーランドのシロンスク県の中央にある街シフィエントフウォヴィツェ

 

シフィエントフウォヴィツェの街並み

 

ズゴダ労働キャンプ正門の記念碑

1990年代初頭から、モレルは、その多くが地元住民だった上シレジア地方での1500人以上の殺害が含まれる、戦争犯罪と人道にたいする罪について当局から調査を受けました。1996年にモレルは拷問、戦争犯罪、人道にたいする罪、共産主義犯罪の罪でポーランドから起訴されました。モレルは事件がポーランド・ドイツ・イギリス・アメリカのメディアによって公表された後に、イスラエルに逃亡し、帰還法のもとで市民権を与えられました。ポーランドは1998年と2004年の2回、モレルの身柄引き渡しを要求しましたが、イスラエルはこれに従うことを拒否し、深刻な容疑については虚偽であるとして拒絶し、更に再びモレルの時効満了と健康不良を理由に拒絶しました。ポーランド当局は、イスラエルがダブルスタンダードを適用していると非難する形で応じ、モレルの身柄引き渡しを巡る論争は彼の死まで続きました。
 

 

共産主義パルチザンとなるまで

 

モレルの背景と若い頃

サロモン・モレルは1919年11月15日、ポーランドのルブリン近くのガルブフ村でユダヤ人のパン屋の息子として生まれました。大恐慌の間、家業は衰退を始めました。そのためモレルはウッチに移り、そこで販売員として働きましたが、1939年の戦争勃発後にガルブフに戻りました。

 

ポーランド東部にあるルブリン


第二次世界大戦と初期のNKVD任務

モレルの家族は第二次世界大戦中にゲットーに入れられるのを避けて隠れていました。モレルの母親・父親と兄弟は1942年のクリスマスに青い警察によって殺害されたとされています。サロモン・モレルと彼の兄弟イサークはポーランドのカトリック教徒であるヨゼフ・カチックによって匿われ、ホロコーストを生き延びました。1983年にヨゼフ・カチックはモレル兄弟を救ったことで、ヤド・ヴァシェムによって「諸国民の中の正義の人」のひとりに指定されました。

 

総督府ポーランド警察は「青い警察」とも呼称される

写真はクラクフ・ゲットーでユダヤ人の身分証明を行っている「青い警察」

諸国民の中の正義の人の表彰状とメダル

日本人ではただ一人杉原千畝のみが認定されている

モレルの2人の兄弟は戦争中に、それぞれ1943年と1945年に亡くなりました。IPNによると東部戦線が進むにつれて、モレルは他の共産党パルチザンと共に姿を現しました。1944年の夏にモレルはルブリンのオビワテルスカ民兵に加わりました。その後、モレルはルブリン城の監視員となりましたが、そこでは反共産主義者の国内軍の多くの兵士が投獄され、拷問を受けました。

 

オビワテルスカ民兵は市民民兵として知られるポーランド人民共和国の国家警察組織

ポーランドの地下国家となっていたポーランド人による国内軍

イスラエルのマスメディアと政府は彼の人生の別のシナリオを発表しました。引き渡しを拒否するイスラエルの手紙には、モレルは1942年に赤軍のパルチザンに加わり、彼の両親、義理の姉、兄弟が青い警察によって殺害された時には森に棲んでいたとしています。多くのメディアによるとある時点ではアウシュヴィッツの収容者であり、ホロコーストで30人以上の親戚が殺害されたと主張しています。
 

 

強制収容所の所長時代

 

ズゴダ労働キャンプの所長

1945年3月15日、モレルはシフィエントフウォヴィツェの悪名高いズゴダ収容所の指揮官になりました。ズゴダ収容所はソヴィエト軍がポーランド南部に入った後、ソヴィエトの政治警察、またNKVDによって設立されました。1945年2月キャンプはポーランド公安省に引き渡されました。収容所の受刑者のほとんどがシレジア人とドイツ人でしたが、少数の中央ポーランドと38人ほどの外国人がいました。

 

シレジアは現在のポーランド南西部と一部チェコの地域でかつてのプロイセン王国の行政区画でもある

時に子供達は両親とともにキャンプに送られました。受刑者は犯罪による告発されたわけでもなく、治安当局の決定により移送されました。当局は受刑者がドイツ人と元ナチスの戦争犯罪者か協力者に過ぎないと社会を納得させようとしました。キース・ロウは「実際にはほとんど誰でもそこにたどり着くことができた」と述べており、収容所の正門の前にある記念碑は受刑者を主に地元住民として説明している。受刑者の拷問と虐待が慢性的に横行していた収容所で2000人近くの受刑者が死亡したと推定され、結果として一日平均100人の受刑者が死亡しました。サロモン・モレルが好んだ拷問の方法は、受刑者が死ぬまで首まで凍った水に入れるという氷水のタンクによるものでした。このキャンプは1945年11月に閉鎖されました。

生存者のドロタ・ボリチェックはモレルを野蛮で残酷な男と表現し、受刑者をしばしば個人的に拷問して殺害したとしています。ポーランド系の地元上シレジア地方のゲルハルト・グルシュカは14歳のときにズゴダに投獄され、収容所での固有の拷問と虐待について詳しく述べた彼の経験についての本を書きました。モレルはまた、1945年にジョン・サックの著書『目には目を:ドイツ人にたいするユダヤ人の復讐の秘話』でサディスティックな拷問の広範囲な形式で非難され、1990年代に英語圏での彼の事件を公表することに貢献しました。

 

ジョン・サックによる告発の書『目には目を:ドイツ人にたいするユダヤ人の復讐の秘話』

歴史家のニコラス・A・ロビンスとアダム・ジョーンズは、モレルが「ドイツの捕虜に対する残忍行為と慢性化した暴行に基づいた殺人体制を主導した」と述べています。キース・ロウは「1945年の秋に数百万人の傷ついた貧しい難民がドイツに殺到したときに、彼らは「地獄収容所」、「死の収容所」、「絶滅収容所」と呼ばれる場所のいくつかの不穏な話をもたらしました。ズゴダキャンプはこれらのキャンプの中で最も悪名高いものの一つであり、ロウによって詳細に議論されています。ロウは、ズゴダや他の収容所の生存者の話は西ドイツ社会に深刻な影響を及ぼし、彼らの話はスターリン主義者の残虐行為の例としてドイツ政府と一般市民によって非常に真剣に受け止められたと述べています。

ヤヴォジュノ強制収容所の所長

1949年2月から1951年11月にモレルは、ポーランドの政治犯(国家の敵と呼ばれる)のためのスターリン主義時代の強制収容所であるヤヴォジュノ集中キャンプの所長となりました。その時には彼は既にポーランドで「例外的なサディスト」としての評判を集めました。モレルが所長を務めていた間、受刑者は主にスターリン主義に反対したとして逮捕されたポーランド人であり、ポーランド国内軍の兵士や、1945年から1952年まで活動していた自由と独立のような他のポーランドの地下抵抗組織のメンバーが含まれていました。受刑者はしばしば拷問を受け、強制労働にさらされました。モレルは青年期の政治犯のための収容所に代わった頃に収容所を去りました。

 

シロンスク県の都市ヤヴォジュノ

 

ヤヴォジュノの記念碑
 

ヤヴォジュノキャンプは1951年から1956年にかけて青年期の政治犯のキャンプとなった

 

ポーランドとイスラエルの狭間で

 

モレルのその後の経歴

モレルは1956年までスターリン主義時代の強制収容所の所長として働き続けました。ポーランドの10月がポーランドの強硬なスターリン主義者の派閥を弱体化させたとき、スターリン主義者の強制収容所は閉鎖されました。1956年以後、モレルはシレジアのさまざまな刑務所で働き、政治警察であるMBPの大佐まで昇進しました。1960年代、モレルはカトヴィツェの刑務所長でした。1964年にモレルはヴロツワフ大学のロースクールで強制労働の経済的価値に関する論文で博士号を取得しました。1950年代にはポーランドの共産党政府はモレルにポーランド復興勲章の騎兵十字章と金の十字章を授与されました。

 

※カトヴィツェもシロンスク県にある

ポーランド復興勲章

金の十字章

解任

モレルは1968年のポーランドの政治危機をきっかけに、1968年5月に彼の地位から解任されました。この危機により、ユダヤ人の役人と元スターリン主義者の双方が追放されました。モレルはスターリン主義時代の強制収容所長としての経歴をもっていたために、1968年のキャンペーンの明らかな標的となりました。他のほとんどのポーランドのユダヤ人と異なり、ポーランドの共産主義政府はユダヤ人に移住を迫ったが、それでもモレルはポーランドに留まり、49歳から退職者としてそこに住み続けました。

刑事訴追

1990年の共産主義の崩壊後、国家記銘院の前身であるポーランド国家に対する犯罪捜査総委員会はズゴダ収容所で行われた虐待の調査を開始しました。基礎を恐れてモレルは1992年にイスラエルに移住しました。

起訴

1996年、サロモン・モレルはポーランドの警察庁から大量虐殺の罪で正式に起訴されました。起訴状は後に修正され、戦争犯罪、人道にたいする罪、共産主義犯罪が含まれるようになりました。後者の告発は2004年に追加され、ポーランドの刑法に基づく特定の犯罪を構成しています。

引き渡し論争

1998年、ポーランドはモレルを裁判所に引き渡すよう要求しましたが、イスラエルは拒否しました。イスラエル政府からポーランド法務省に送られた回答は、戦争犯罪の時効が切れたため、イスラエルはモレルを引き渡さないと述べました。

2004年4月、ポーランドはモレルにたいして別の身柄引き渡し要求を提出しましたが、今回は新たな証拠があり、事件を「国民に対する共産主義犯罪」に格上げしました。サロモン・モレルにたいする主な告発は、シフィエントフウォヴィツェのズゴダ収容所の所長として、民族的および政治的配慮から、飢餓や拷問など、彼らの生活を危険にさらす条件をこの収容所の受刑者のために作成したことでした。モレルにたいする告発は、主にズゴダ収容所の元収容者58名を含む100名以上の目撃者の証拠に基づいていました。2005年7月、この要求はイスラエル政府によって再び正式に拒否されました。その回答は、より深刻な告発を虚偽であるとして拒否しました。反ユダヤ主義の陰謀、そしてモレルにたいする時効が尽きたこと、そしてモレルの健康状態が悪いことを理由に、再び身柄引き渡しを拒否しました。ポーランド国家記銘院の検察官であるエヴァ・コイはこの決定を批判しました。「戦争犯罪者がドイツ人であれ、イスラエル人であれ、その他の国籍であれ、戦争犯罪者を判断するための一つの基準が必要である。」とコイは述べています。モレルは彼の調査と起訴が始まってから17年後の2007年2月14日にテレアビブで亡くなりました。

 

共産主義犯罪…ポーランドの刑法では共産主義犯罪が法的に規定されている。

業績

アン・アップルバウムはモレルを次のように説明しています。

 

改革派ユダヤ人アン・アップルバウムは外交問題評議会のメンバーでもある

トロツキズムの亜流であるいわゆるネオコンに近い立場と思われる

ホロコーストの犠牲者、共産主義の犯罪者、家族全員をナチスによって失った男、ドイツ人とポーランド人に対するサディスティックな怒り、彼の犠牲者から生じたかもしれない、あるいは生じなかったかもしれない怒り、彼の共産主義に関係していたかもしれない、関係していなかったかもしれない怒りに取りつかれた男である。彼は深く復習し、そしてひどく暴力的でした。彼は共産主義のポーランド国家からメダルを授与され、ポスト共産主義のポーランド国家によって起訴され、イスラエル国家によって守られましたが、彼が起訴を恐れ始めた後までは、戦後半世紀までイスラエルに移住することに関心を示しませんでした。
 

まとめ

 

反トランプ政権でもあったアン・アップルバウムのようなアメリカのユダヤ人の多くは東欧・ロシアの共産主義の歴史に詳しい人間が多くいます。確実にサロモン・モレルと部分的に目的を同じくしています。そういう意味でも現在のネオコン勢力の動きを知る意味でも、日本人はかつての戦争がユダヤ人や他のヨーロッパ諸国の諸国民にとってどういった戦争であったのか知る必要があると思います。

 

今回はサロモン・モレルというユダヤ人の強制収容所の所長にスポットライトを当てました。一般的に日本ではユダヤ人が強制収容所を設けていたという点について俄かには信じがたい事実と受け止めることだろうと思いますが事実です。このような隠された事実を掘り起こしていくことが今後重要だろうと思います。

 

さいごの一言

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました。ご感想などありましたら、気軽にコメントください。