私はこれまで宗教に関する議論に関わってきました。ここで私は宗教についてどのような認識を持っているのかを示す必要を感じています。

特に議論をする必要を感じるものは次のようなことです。神は存在するのか、悪魔は存在するのか、幽霊は存在するのかということです。古今東西、子供から老人まで幅広く議論されており、人それぞれ考え方は異なるのかもしれません。どのような結論を私以外の人が持っていようとも、私は私で私なりの考えを表明する必要があります。


定義


まず、議論を行いやすいようにするために、ここだけで用いる定義づけを行います。カッコつきで「超越者」という概念と「実在者」という概念を用いることにします。

まず「実在者」から定義します。「実在者」を人や人以外の動植物、人が使う道具や無機物などのように実際に目で見て、耳で聞いて存在を確かめられる対象とします。

次に、「超越者」ですが、「実在者」とは異なり、実際に目で見たり、耳で聞いたり、手で触れたりしても存在を確かめられない対象とします。具体的には、私が議論したい、神や悪魔、幽霊などといったものがこれにあたります。

人によっては幽霊を実際に見たことがあると答える人がいるかもしれません。しかし、このような場合であってもそれは「超越者」に分類します。このような定義に従えば、ツチノコなども「超越者」に分類されます。

 

「超越者」は存在するのか


少なくとも「超越者」は「実在者」とは異なった存在であるというのが、概ね共通の認識としてあるかもしれません。しかし、結論から言ってしまいますが、私は「超越者」は存在するとか、「超越者」は存在しないということを言えない立場だと表明します。

このような結論を提示すると、「超越者」が存在するのか存在しないのか解っていないのではないかと反論してくる人がいるかもしれませんが、実はそういうことではありません。

元来、存在するや存在しないという表現は、「実在者」について使われる表現です。「超越者」といったものはこのようなものとは異なります。

もし、「超越者」は存在すると答えるのであれば、「超越者」を「実在者」と同列に扱っているためにそのように答えているのであり、逆に「超越者」は存在しないと答えるのであれば、「超越者」を「実在者」と同列に扱っていないためにそのように答えているのです。

ここで一つの結論がでました。「超越者」を「実在者」と同類のものであるという認識から「超越者」は存在しているといい、「超越者」を「実在者」と同類のものではないという認識から「超越者」は存在しないといっているという部分があります。

 

「超越者」と「実在者」の同一性と差異


「超越者」と「実在者」がどのような部分で同じように認識されるのでしょうか。それは簡単にいいますと、「超越者」も「実在者」も認識可能であるということです。私は私以外の特定個人を認識できるように、神や悪魔といったものを認識できます。神がどういったものか、悪魔がどういったものか、あるいは幽霊がどういったものかは、人それぞれ異なる部分もありますが、認識可能です。

これとは逆に、「超越者」と「実在者」では決して同定できない識別方法があります。それはまず、定義づけの段階で明るみになっていますが、私たちは「超越者」を知覚できません。一方で私は私以外の特定個人を知覚できます。もし私がその人を知覚可能な状態にあるならばという条件付きの話ですが。「実在者」とは知覚可能性によって、「超越者」から切り離されます。

「実在者」と「超越者」を認識するためには、私たちが認識をする存在であり、また知覚する存在であるという点を見逃すべきではないでしょう。

 

「超越者」の文化的側面


神とはどういった存在なのか、あるいは悪魔とはどういった存在なのか、幽霊とはどういった存在なのか、また、神や悪魔や幽霊などといった存在と私たちはどのように関わっているのかについては、それぞれに歴史的に異なる文化圏ごとに小さくない違いがあります。

「超越者」はその地域やコミュニティによってその概念を確立している部分があります。簡単な例をあげますと、日本の伝統や歴史から伝えられている現代において認識されている神と、アブラハムの宗教における神の概念は大きく異なります。もちろん個人によって人それぞれ認識には違いがありますが、文化的側面を無視すべきではないでしょう。「超越者」には文化的側面があるという点を私は強調したいと思います。

 

造物主はどちらか


アブラハムの宗教をはじめ神という概念の一部には、神は人間を創造したというものがあります。このことが正しいのか正しくないのかはさておき、次のような逆説もまた人は想起できます。私たち人間の存在によって、言い換えると、私たちの認識と知覚の存在ゆえに、神が人間を創造したということです。人間の存在が神を創造したという逆説です。

少なからず神という概念すべてが造物主ではありませんが、人間が人間存在がどのように作り出されたのかという想像を働かせ、正しいか正しくないかはともかく一つの結論として、人間を創造したナニモノかを作り出したのは一つの人間の宿命だったのかもしれません。

神を逆説的な存在といってしまうと多くの反論をいただくかもしれませんが、認識論的にはこのような論理的な帰結が生まれても決して驚くほどのことではないでしょう。

 

知覚と認識のメカニズム


さて、「実在者」とは異なる「超越者」が認識されるためには、人間が知覚し、認識する存在である必要があります。人間の知覚・認識のメカニズムの起源を辿るのであれば、多細胞生物の多様化が爆発的に拡がったおよそ5億年以上前のカンブリア紀が一つの目安になるかもしれません。

それから非常に長い年月をかけて独特の知覚・認識のメカニズムを手にした人類ですが、それまで生命が歩んできた痕跡とその生命が生きてきた世界の痕跡が、この知覚・認識のメカニズムに刻まれていると考えることもできるでしょう。

私たちの知覚と認識の世界を喜びにあふれたものと捉えるべきなのか、あるいは文字通り血にまみれたものと捉えるべきなのか、あるいは驚くべきものと捉えるべきなのかは解りませんが、いずれにせよ、私たちが私たち自身を、そして私たちが生きている世界を解釈するにあたって、そして私たちの「超越者」を解釈するにあたって、このような生物史的な痕跡が伺えることは間違いないでしょう。

 

超越した「超越者」


さて、私は神や悪魔や幽霊といった「実在者」とは異なり、目で見たり、耳で聞いたり、手で触れたりして確かめることのできないものを「超越者」と呼んできました。しかし一方で、私以外の他人が私の認識を超えて存在しているのに対して、「超越者」といえば、私を超え出ずに、私の内側に投影されているものであると考えることもできるでしょう。

私はほとんど常に他人の感情をコントロールできません。それは「実在者」がある意味で完全に私を超えた存在であるためです。この意味で言えば、「超越者」の方は私自身の認識の中にいます。知覚することができないというのはこのような意味合いがあります。

一方で、神や悪魔あるいは幽霊などといったものもまた、私たちの畏怖の対象であったことも間違いないでしょう。「超越者」もまた私たちのコントロールの外側にあります。「超越者」が存在するのかしないのかはともかく、「超越者」は常に、認識の内側にありながら、認識の外側にも存在します。

それは一つに「超越者」が文化的なものであるという点からも伺えると思いますが、一方で、「超越者」が内なる存在であったとしても決して常にコントロール可能なものではないためとも言えるでしょう。

あるいは幽霊であるならば、その「超越性」に冷静さをもって対応できる可能性もあります。成熟した大人が幽霊を恐れないのは決して珍しいことではないでしょう。彼は幽霊の存在を信じていないと考えているかもしれませんが、そうであるにも関わらず、幽霊という概念を認識しているはずです。存在しないと思うことができたとしても、幽霊という概念を認識しないことはできないでしょう。これは一種の不可逆性と考えることもできるでしょう。

これとは別に神あるいは悪魔という「超越者」はどうでしょう。成熟した大人であれば、もしかすると幽霊と同じような感覚で神や悪魔というものを認識しているかもしれませんし、場合によっては、少なからぬ信心がどこかにありながらも、その「超越者」に冷静に応じようと考えているかもしれません。

しかし、この神や悪魔といった概念の厄介さは、幽霊のような個別的あるいは数多的な認識とは異なり、特殊な、あるいは絶対的な認識であるということです。

私は「超越者」を文化的なものであると述べましたが、神や悪魔といった超越者は、幽霊やツチノコといったものとは別に、人間全体の認識の上で、極めて大きな影響力を持っています。

特に神や悪魔といったものは、宗教によってはその存在を信じることを個人に迫ります。非常に長い歳月にわたり、「超越者」の存在を信じることへの脅迫的な活動によって、歯止めが利かない、凶暴で自制心を失った力となって世界の様々な現象に表出される可能性が絶えずあります。

 

まとめ


現代社会が直面している諸問題の多くに神や悪魔といった「超越者」の存在が無関係であるのであれば、社会問題はより解決可能なものへと進んでいくと断言できるほどには、私たちの世界は単純にはできていないでしょう。そして、この複雑怪奇な世界において、更にそれを一層狂気じみたものと私たちに認識させるものの一つが「超越者」と私たちの関係性なのかもしれません。

さて、いままで述べてきたことからも推察していただけるかもしれませんが、私は決して特定の宗教の神に対する信心を持っていません。同時にまたマルクス主義にみられるような無神論に対する共感も持っていません。そしてこの両者に決して接近するつもりもありません。

世界に存在する様々な「超越者」を人々がどのように認識し、どのように解釈し、その上でどのように行動しているのかを理解する上でも、「超越者」とはどのようなものなのかを認識する必要があります。

「超越者」を恐れ過ぎず、そして適度な警戒感を持って、「超越者」によって齎される世界認識に安心しきらず、世界の難局を乗り越えるためにも、思考停止することなく、「超越者」を乗り越えるべく生きていく重要性を強調することをもって議論を終わりたいと思います。