【ウ・テジャニヤ長老の名言 第6集】自由への扉が開く珠玉のことば集

2021年11月6日土曜日

名言集

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 日本人の場合、瞑想を実践するという事になるとどうしても日本に古来から伝わる修行法と結びつけてしまい「背中を真っ直ぐ立てて動かないようにする」とか「雑念は邪魔なもの」などと考えがちです。


しかし、こちらで紹介しているこのマインドフルネス瞑想は、そのような一点集中で対象との一体化を目指すサマタ瞑想とは対照的に、実践するのに緊張したり雑念を無視したりする必要はありません。


背中をピンと立てると疲れるので、座る時は背筋を立てた姿勢から腰を引いてやや背中を丸め、雑念が出たら「雑念も見て貰いたくて出てくるのだから、見てやらないと何度でもしつこく出てくるからな。ハイハイわかったからね」と邪剣にせずに気づいてやります。


とにかく気づく事だけが目的なので、緊張も気合も集中も必要とせず、心への興味と探究心とで心身のありのままの姿にたどり着こうという、日本の伝統的な修行法に逆らうような指導が、このSUTの指導の根幹をなすものとなっています。







修行者

正しい努力とは気迫を込めて修行する事ですか?




長老

正しい努力(四正勤)は、不善心を除き、不善心が生じないようにし、善を生じさせ、善を成長させる。もし修行で不善な心が生じれば、それは正しい努力ではない事になる。






私たちの人生はひたすら快適さを求め、不快さを遠ざけようとする貪欲さと怒り・嫌悪の旅だ。

だが、それに気づけば少しずつ改善する気になる。貪欲さや怒りを取り除く事はできなくても、それに振り回されたくはなくなるからだ。

不善心は常に生じるので、それに気づくのは難しくない







修行者

仕事中にマインドフルネスを習慣づける方法はありますか?


長老

私たちは通常、見るもの聞くものの対象については気づけても、行っている事には中々気づけない。それは気づくか行うか、どちらか一方に注意をとられてしまうからだ。だからまずそれに気をつけるようにする。






また、読んだり書いたり作業したりする事に気づく時は、あまり肩に力を入れないで、軽い気づきを継続させるようにする。

軽い気づきの継続は、気づきを勢いづかせ、あまり努力しなくても楽に気づいていられるようになる。

そうすれば働いている間中気づきを維持していられる。






日中に活動している間に、心の中で慈しみや気づき、智慧などの善心を育て、心を安定させている場合は、他の人々と同じだけの睡眠をとる必要はないし、その事を心配する必要もない。

だから心を放っておき、無意味な思考で不善心を勢いづかせ、増加させる事だけは止めたい。






夜中に目が覚めて眠れない時は、直ぐ気づかないと考え始めてしまう。

心身の活動をせずに心を放っておくと、思考は急増する。刺激を求めてひたすら楽しい事、悲しい事、くだらない事を一心不乱に考える。

そんな無意味な思考は心を疲弊させるだけだ。心に仕事を与えなければならない






瞑想中に起こってくる事は何であれ、概念化したり解釈したりせずに、そのまま観るようにする。

「怒っている」「喜んでいる」等は概念・思考だ。

概念の方ではなく、怒りや喜びの性質に目を向ける。

感情のエネルギーを感じるのだ。言葉にできなくても、気づいていれば十分だ。








修行者

執着を手放す時はどうするのですか?


長老

仏教の修行の核心となるのは、放棄、手放す事、出離だ。これを行うには二通りの方法がある。一つは合理的思考によるもので、例えばペットの犬が死んだとしたら「生き物は必ず死ぬ。明日は我が身だ」と考えて手放す事ができる。






二つめは自然に分離される方法だ。

私たちは日々の瞑想で概念的な問題を手放す経験をしている。

つまり心の状態に気づけば自ずとその状態から分離される事を知っている。

つまりペットの犬が死んでも、悲しみに繋がる思考や不快感、嫌悪感などに気づけば、思考や感情から分離される。






貪・瞋・痴の不善な心は「私という者が存在する」と言って私たちを欺こうとする。

貪は「私はあれが好き」と切望し、瞋は「私はこれが嫌い」と怒り、悲しむ。

痴は「私はこういう者だから」と自分の物語を創る。

幻惑させて世界をありのままに見せないようにするのも、痴の働きだ。






気づきがあれば、心の落ち着きや智慧が閃くといった体験ができる。

気づくのは座って瞑想している時だけではない。

歩いている時、働いている時、掃除をしている時、どんな時でもできる。

どうしても座っている時だけに限定しがちだが、善心は何をやっている時でも生じる事ができる。






修行者

私の努力が正しいのかどうか自信が持てません。


長老

もし間違っていたとしても、あなたはそこから学ぶ事ができる。間違いを恐れて何もできないというのは不善な心だ。修行の妨げになっている。ただ今起こっている事を観るだけでいい。ひたすらそれを行うだけでいいのだ。






例えば瞑想中に頭痛がしてきたとしたら、確かにその方法は間違っている。

しかし、その度にリラックスする事を学ぶ事ができるではないか。

間違いや失敗を恐れて力が入り過ぎている場合もリラックスを学ぶ事ができる。

そのように、間違うほどに学べる機会も多くなるわけだ。






修行者

瞑想中に思考を観ようとすると巻き込まれてしまいます。


長老

心は非常に速く、微妙で観察し難い。思考を観る時に思考する心の方ではなく、思考の内容の方に注意を向けると巻き込まれ易い。しかし、慣れるまでは巻き込まれては戻る事を繰り返すのは普通なのだ。







怒りや嫌悪感が生じる理由を理解するには、全プロセスを認識する必要がある。

答えを考えるのではない。

私たちは答えを得るよりも怒り・嫌悪感が発生する因果関係の方に関心を持った方がいい。

思考による理解は浅く薄いが、経験的理解は深いところまで及ぶからだ。






修行者

自己の利益があらゆる行動の動機になっている事がわかりました。


長老

行動の動機は渇望から来る場合もあれば智慧から来る場合もある。それを見分けるには、貪欲さや怒りが動機だと心が苦しむ事になるが、善心が動機だと心の質が良くなる事を見る。





修行者

私は瞑想で自分の事を悪い人間だと気づかされました。


長老

常に悪い人というのはいない。誰しも良い時もあれば悪い時もある。善心がある時は善良な人になり、不善心がある時は悪い人になる。みんな同じだ。常に良いだけ悪いだけの人というのはいない。






誰の心の中にも善心と不善心とが混在している。

自分を厳しく裁くべきではない。

同じ人でも智慧が働けば賢くなり、惑わされれば愚かにもなる。

心の質によって、その時々で違った自分がいるのだ。

「このような者」と言えるような一貫した主体はない。






修行者

早朝の瞑想ではいつも半分目覚め、半分寝ています。


長老

その時は心は上手く機能していない。落ち着きに耽っている。目覚めていても油断している。落ち着いている時は智慧を使う時でもあるから、一体今、いくつの対象を知る事ができているのか?チェックしてみるといい。






心が落ち着きに耽って上手く機能していない時は、落ち着きに注意を向けるとますます眠くなる。

だから気づきを維持するようにする。

その時は落ち着きと気づきの違い、対象とそれを知る心の違いがわかるだろうか?

気づきに気づこうとすると心はあっさりと目覚める。






瞑想中に生じてくる感情は、鎮めようとするよりも、できるだけよく感じて発散した方がいい。

さもないと何度でも生じてくる。

感情が高まって気づきを維持できない場合は、呼吸や胸の鼓動などの快でも不快でもない感覚に移ってやり過ごし、鎮まってからまた観察に戻った方がいい。








心が気づくたび、不善な心は成長できなくなり、新しく善業を積む事になる。

心が気づくたび、点でしかなかった気づきは線となってひとつの法則性を見出すようになる。

心が気づくたび、心身に起こる事はありのままに見られ、怒りや恐怖、不安などに巻き込まれて苦しむ事がなくなる。






修行者

私は気づいていない瞬間を調べました。すると貪欲さや怒り、不安などの感情や「私」について考えていたりすると気づきが失われる事がわかりました。


長老

そう、貪欲さや怒りがあると気づきはなくなるし、それらの感情は「私」「私の」といった誤った見方から発生してくる






自分自身について知るには「私はどんな者か?」と想像を巡らせるのではない。

自身の事は気づきと、物事を「私」「私の」と所有しない正しい見方によって知る事ができる。

そのような正しい見方のよって修行への信頼と信念が増し、徐々に心について知る事に興味が出てくるのだ。






修行者は物事が順調な時は気づくのを忘れがちだ。

だから病気になると苦しみが生じる。

だが病気でなくても常に気づいて警戒し、執着しないように心がけておく事だ。

健康体であっても気づいていない時は、いつでも渇愛に振り回されて、貪欲さや怒りまみれにさせられているのだから。






誰にでも渇愛という衝動があり、心地よい体験をした時は、無意識のうちに「もっと欲しい、もっといい体験をしたい」と体験を貪り、渇望する。

そのためいい事がなかった時に、今度は「望んだ通りにいかない」と怒る事になる。

心地よさを貪った分だけ、一転して苦しむ事になるのだ。






私たちは心地よさを感じてもそれに気づいていなければ、それを貪り、渇望し、心地よさが得られない時にその分だけ苦しむ。

だから状況が悪化しても慌てる事のないよう、常日頃から警戒し、心地よい時でも病んでいる時でも、いつでも気づいているようにしなければならない。






マインドフルネスの実践は正しく行う事が目的なのではない。

これは体験から学ぶための方法だ。

失敗してもそこから学ぶうちに、見えなかったものが見えてくる。

つまり自身の心の深層にあるものが見えてくるのだ。だから失敗する事を自身に許してやらなければならない。








オープンアウェアネス(開かれた気づき)とは、全ての対象は心によって知られているため、心の方を認識する事で全てを知ろうとする方法だ。

それが私が気づきに気づく事を強調する理由でもある。

対象に気づいている心を認識する事、それが一番効率のいい方法だ。






修行者

私は心身の全ての感覚を観察し、その感覚と心理状態との関連性を探求しています。


長老

もし心身の全体像を知りたければ、気づきの方に注意を向けるといい。眼耳鼻舌身意の全てを観ようとしなくても、心の入口で待ち構えていれば、みんなそこにやってくるからだ。






修行者

瞑想中は集中せずに心を自由にさせておくと、思考や心理状態を知るのが簡単になります


長老

それが智慧の見方だ。焦点を合わせないと視野が広くなり、より多くの事、物事の関連性、因果関係を知る事ができる。焦点をきつく絞ると視野が狭まり、大局を見る事ができなくなる





修行者

怒りや喜びにかられて、それについて何度も考えてしまう場合は、思考の方を観ています。


長老

そんな時は思考ではなく、感情の方を観た方がいい。苛立ちや感動が創り上げる物語はのめり込み易いため、どんどん考えてしまい、感情が高まってしまう。






感情は概念ではなく、物語でもない。

ただエネルギーを感じるだけでいい。

感情に気づき、感情によって思考が影響されてしまう事を知るだけでいいのだ。

つまり思考は感情を言い表しただけのものに過ぎない。

心が思考に関与しなければ、気づきはますます冴えわたる。






修行者

瞑想中に思考の物語に心を見失うと好き嫌いの感情が出てきます。この好き嫌いがない時が煩悩がない時という事なのですか?


長老

気づきが戻った時に、観察する心に好き嫌いがなければそういう事になる。好き嫌いがなくても、気づいていなければ妄想があるので煩悩はある。





たとえ貪欲さも怒りも嫌悪感もない時でも、気づきがなければ妄想は存在する。

気づきがなければ智慧はない。智慧がなければ妄想がある。

智慧のないまま「私はこのような者」と自己を妄想する限りは、貪欲さや怒り、嫌悪感が発生する可能性がある。







私たちは常に決断を下さなくてはならない岐路に立たされている。

決断を誤らないためには、決断を下す前に、自らがどのような考え方と態度でいるかを知らなければならない。

正しい決断が下せるのは智慧がある時だけで、貪欲さや怒りがあると問題を起こす事になるのだから。






心に貪欲さや怒り、嫌悪感、心配、不安などがある時は、決断を思いとどまった方がいい。

心が落ち着けば合理的な考えも生まれ、智慧を持って決断できる。

智慧は貪欲さや怒り等がある時に一時停止ボタンを押し、一旦それらに注意を向けさせ、心が落ち着いてから決断を下すようにする。






智慧が存在する時は、何が起こっているのか知りたくなる。

例えば私たちは長い間呼吸を観てきたが、息を吸う事と吐く事との違いについてはあまり知らない。

それは心が興味を持っていないからだ。

呼吸を観て心を落ち着かせたいとは思うが、それを理解する事は、したがらないのだ。






マインドフルネス瞑想の目的は、心身に起こっている事を知り、理解する事だ。

だから私たちは気づこうとしている。

雑念に気づき、思考に気づけば目的は達成している。

しかし私たちは雑念が出てくるのは良くないという誤った考えも持っている。問題なのは雑念よりもそちらの方なのだ










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  最終更新日 2023.12.31

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