サンクト・ペテルブルグ歴史地区と関連建造物群(ロシア)

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Historic Centre of Saint Petersburg and Related Groups of Monuments ( Russian Federation )  OUV(i)(ii)(iv)(vi)

1990年世界遺産登録 2013年軽微な範囲変更

■ロシア皇帝によって栄えた「水の都」

サンクト・ペテルブルグはピョートル大帝が聖人ペテロにちなんで「聖ペテロの街」を意味する名前を付けたことに由来するそうで、歴史地区を1エリアとし、その他建造物を含めて計36ものエリアが世界遺産に登録されています。

1712年にネバ川に要塞を築いて以来、ロシア革命にいたるまでのロシア帝国の首都であり、現在も首都モスクワに続いてロシア第二の都市として機能しています。世界遺産の中心となる歴史地区は、ネバ川に囲まれた街の中心部と、川の孤島に存在する「ペトロパヴロフスク要塞」、そしてヴァシリエフスキー島。

1682年に即位した初代ロシア皇帝ピョートル大帝(ピョートル1世)は、当時最大の外敵であったオスマン帝国に対抗し、ヨーロッパ諸国との同盟を探るために西欧諸国に使節団を派遣するなど、西欧化を進めました。

実際には、先進的であった西欧の造船技術や貿易のノウハウを導入するのが目的だったようで、なんとピョートル大帝自らオランダやイギリスの造船所に潜り込み、働きながら学んだというのですから驚きです。こうしてネバ川に沿うようにアドミラルティスキー地区には、ロシア海軍本部が造られ、今では「旧海軍省」として観光名所の一つにもなっています。ここには”青銅の騎士”像としてピョートル大帝の騎馬像があります。

また旧海軍省のすぐ近くに、「聖イサアク大聖堂」があります。もともとはピョートル1世の時代に建築されましたが、その後焼失し、現在の聖堂はロシア風ビザンツ様式を基本に再建されたものとなります。ロシア正教会の聖堂として、ピョートル大帝の守護聖人である聖イサアクにちなんで名づけられたそうです。

Akarasa_StudioによるPixabayからの画像  聖イサアク大聖堂

ピョートル大帝は西欧の造船や貿易に関して学んだあと、バルト海の覇権を得るべく、まずはスウェーデンを打倒する必要がありました。こうして1700年から北方戦争がはじまります。これを機に徴兵制やサンクトペテルブルグを軍港としても活用し、 「ペトロパヴロフスク要塞」を建造することとなります。

要塞は星型要塞をモデルにし、侵入に備えて複数の方向から挟み撃ちをする迎撃態勢を整えています。また要塞の中央には、ペトロパヴロフスキー大聖堂を置き、ここにピョートル1世が葬られているのだそうです。

時はたち、1796年に即位したロシア第8代皇帝エカチェリーナ2世の時代。

彼女がもともとドイツの画商が売り出した美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションのはじまりとされています。エカチェリーナ2世によって自身専用の美術品展示室を建てたあともコレクションは増加し、いくつも施設が増築されていきました。現在は「エルミタージュ美術館」として機能していますが、実際は小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場、冬宮殿の5つの建物が一体となっているのです。

エカチェリーナ2世もまた、 ペトロパヴロフスキー大聖堂に埋葬されています。

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