劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⒁

2022年04月30日 | オペラ
 越路吹雪を“日本のシャンソンの女王”に押し上げていった「時代のうねり・エネルギー・文化的潮流」とは、どこからそしてなぜ生み出されたのだろうか。
 1945(昭和20)年3月米軍による東京大空襲・4~6月沖縄戦・8月広島長崎原爆投下、ソ連の不可侵条約破棄による対日参戦…政府は、世界から孤立し焦土と化した祖国の現実を前にしてついに「無条件降伏」を受諾するに至る。満州事変(1938年)以来、軍部の独走に歯止めがかけられなかった帰結であった。
 一家の大黒柱は大陸や南方の島々で、銃後の家族も本土各地の空襲で命を落とした。残された子どもたちは、親戚に身を寄せたり浮浪児となって駅の地下道をねぐらとしたりして生き延びた。
 国民の多くは衣食住に窮していたが、皮肉なことにまた「戦争」が日本復興を下支えすることになる。朝鮮戦争(1950~53年)の補給地となったことがキッカケで、神武景気(1954~57年)・岩戸景気(1958~61年)と、日本経済は鰻上りの発展を遂げたのだった。三種の神器をもじった「冷蔵庫・洗濯機・テレビ」が飛ぶように売れるとともに、ホンダ・ソニーなどの自動車・電機産業も勃興し、やがて輸出も盛んになっていく。
 それまでの「天皇陛下万歳!鬼畜米英!贅沢は敵だ!」のスローガンはあっさり消え、当局はそうした学校の教科書掲載の記述を生徒に墨で消させた。少年たちは大人に対して不信感を抱き、新たな価値観を求めて動き出す。青年に成長すると大人に代わって「破壊から建設へ」の中心的担い手になるのは必然だったともいえる。
 文化的潮流もとどまることを知らない勢いだった。戦時中は「敵性音楽」だったジャズが街中に流れ、軍の施設は接収され米軍基地となったため、ミュージシャンたちはダンスのバックバンドとして雇われた。海外留学も解禁となり、クラシック音楽作曲家黛敏郎のパリ滞在も実現している。また、ラジオに加えて新たな放送媒体となったテレビ局には才能豊かな若者たちが台本作者・作詞家・作曲家・演奏家・出演者として集結した。
 昭和という時代(1926~1989年)を戦争から壊滅、復興、成長と捉えると、この「復興期」こそが、エネルギーに満ち文化的潮流を生み出す時代だったのである。
 文学や演劇の分野にもそれまでは見られなかった新芽が芽吹いてきた。その一例が同世代の石原慎太郎と浅利慶太でともに20代後半だった。湘南の若者たちの生態を描いた『太陽の季節』で芥川賞作家となった石原。新たなフランス演劇を標榜して劇団四季を立ち上げた浅利。政治的感覚にも富んでいた二人は政財界の人脈にも切り込んでいき、日生劇場(千代田区有楽町)創設の原動力となる。東急グループの総帥・五島昇が日本生命社長・弘世現に二人を紹介すると、日本生命創業70周年記念として劇場建設が実現する。
 杮落とし公演「ベルリン・ドイツ・オペラ」(1963年10月)を皮切りに、劇団四季による石原の創作劇や劇団の枠を超えたシェイクスピア劇、歌舞伎、ミュージカルが上演される。1970(昭和45)年以降は自主制作から貸し小屋方式に変わり、五島社長と共に石原・浅利重役も退陣することになるが、浅利慶太はプロデューサー・演出家として中心的な役割を果たしていく。その代表的な仕事の一つが「越路吹雪のロングリサイタル」だった。
 日本ゼネラルアーツという舞台制作会社を設立した浅利は1960年代後半から越路のロングリサイタルの演出を引き受け、越路の死去する1980年までこのリサイタルを担当し続けた。もちろん、演出家ばかりではなく、音楽構成と作曲は越路の夫である内藤法美、ジョージ川口をはじめとする一級の演奏家メンバー、劇団四季からは舞台装置の金森馨・照明の吉井澄雄など各分野を代表するスタッフが揃っていた。こうして輝いていた「昭和の復興期」は、かつて敗戦時に少年だった世代が中心となって生み出した所産であった。
 越路吹雪がこの若いエネルギーを支えにできたことが“最もチケットが困難なライブ・ステージ”の主役という地位を得ることにつながった。しかし、その陰で本人がどれだけ真摯に「歌」に向かい合っていたかを知る人は少ない。
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