古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

アジスキタカヒコネとアメノワカヒコ

2021-04-26 12:23:30 | 歴史

約4000年前の縄文時代の北海道 洞爺湖町 入江貝塚からポリオ患者とみられる人骨が出土したときは話題になりましたね。

20歳代の女性とみられ、寝たきりで誰かの手を借りながら生活をしていたといいます。

今よりも生活環境が厳しかったと思われるのに、縄文人は一人で生きていくことが出来ない人もちゃんと面倒をみていたことが判明しました。

土偶のモデルだって障碍を持つ人だという説もあります。

神から遣われし者、神に近い者として障碍者への畏敬の念がうかがえます。

ヒルコ、スクナヒコナ、クエビコ等、障碍者が神とみなされていたのではないかと思われる例も少なくありません。

 

神話の中でアジスキタカヒコネとアメノワカヒコはそっくりだったとされます。

この神話について

  高天原から葦原の中つ国を平定するためにやってきたアメノワカヒコ。

  アメノワカヒコらにとって、高天原よりもオオクニヌシの政治・国の在り方が優れたものに思えたから、アメノワカヒコはオオクニヌシを選んだ。

  オオクニヌシの娘、下照姫の婿となったアメノワカヒコは高天原と決別し、アジスキタカヒコネと名乗るようになった。

  アメノワカヒコは死んだものとされた。

  アメノワカヒコの葬儀にアジスキタカヒコネがあらわれたのは、身内に実はアジスキタカヒコネとして生きていることを知らせるため。

・・・そのようなストーリを私はこれまで思い描いていました。

しかし障碍をもつ者が神として畏敬されることを考えると、アメノワカヒコとアジスキタカヒコネは別人で、本当に顔が似ていただけかもしれないとも思えます。

共通の遺伝性疾患によりアジスキタカヒコネとアメノワカヒコの顔が似ていたというケースも有り得るかな、と。

アジスキタカヒコネの母は宗像の女神なのですから、高天原から来たアメノワカヒコとは別人と考えるほうが自然なようにも思えます。

アジスキタカヒコネの言葉の発達の遅れはホムチワケの場合と重ね合わされ、水銀中毒によるものとの説がありますが、あるいは遺伝性疾患によるものなのかもしれません。

ただそうすると、当時において遺伝性疾患を持ちながら長生きできたのかという部分が問題となりそうですが…。

近年においても、例えば歴史的偉業をなした人物の中には広汎性発達障害の人が少なからずいるのではないかと言われています。

大御神と称えられるアジスキタカヒコネは天から授かったなにがしかの才能を持った人物だったのかもしれません。


さなきと讃岐

2021-04-22 11:32:57 | 歴史

銅鐸は古語では「さなき」「さなぎ」「ぬて」「ぬりて」などと呼ばれたと推測されています。

この銅鐸に関連している地名が各地に残されているとされます。

猿投山、狭投、佐那具、名護、奈具など枚挙にいとまがないほどです。

名著「銅鐸」の藤森栄一氏も、地名を手掛かりに探求を続けています。

神庭、神於山、神岡など、銅鐸出土地の地名に「神」がつくことも指摘されるところです。

加茂や鴨という出土地についても「神」なのでしょうし。

銅鐸は意識的に葬り去られた祭器と見受けられます。

手放した祭器由来の地名が残り続けたのは何故なのでしょうか??

 

「さなき」に関する地名で気になっているのが讃岐です。

讃岐には今も「讃岐鋳造品」として伝統の技が継承されています。

佐柳島も、大鐸姫(大野手姫)の島と思われる小豆島も近くにあります。

讃岐が鐸由来の地名である可能性は高いと思うのです。

しかし讃岐の地名由来として最も有力なものは竿調国(さおつきのくに)が縮まって さぬき となったというものでしょう。

あるいは四国内の他の国よりも緯が狭いため狭緯(さぬき)と称したであるとか、小平野の多い地形から狭野→さぬきとなったとか、いずれにせよ鐸とは関係がない地名由来ばかりです。

 

製鉄が盛んに行われた吉備は「まかねふく吉備」だし、褐鉄鉱を取っていたと考えられる信濃は「みすずかる信濃」と称えられています。

それに対して讃岐は「玉藻よし」なんですよね。万葉集の柿本人麻呂の歌が有名です。

玉藻ですから、良い藻がとれることを褒めている・・・。

笠縫である手置帆負命の孫が矛竿を作り、讃岐忌部は毎年調庸の外、八百竿の矛竿をたてまつってきました。

(竹取翁が讃岐造なのは讃岐忌部が竹を扱ってきたことと関係しているとも思われます)

金属を産出していそうな名前の坂出の「金山」から採取されたのは「サヌカイト」です。

この金山のサヌカイトは縄文時代から中四国の広い範囲で石器として使われてきました。

中国山地の冠山でもサヌカイトは出るそうですから、金山のサヌカイトはブランド品だったのでしょうね。

サヌカイトの出る大阪と奈良の境にある二上山の近くまでも金山のサヌカイトが入っています。

石でいうと、古墳の石棺は香川県で作られ始めたという説があります。綾歌町の快天山古墳の3つの石棺が始まりだとされます。

香川の石棺は大阪、徳島、岡山に運ばれています。

 

讃岐は海産物、竹、石の国なんですよね。

それでも鐸の国であるように思えてならない・・・理性的ではありません。

それにしても伝讃岐国出土の袈裟襷文銅鐸、素晴らしいですよね!!

 


鉄の鏡

2021-04-19 17:18:27 | 歴史

数日前の朝日新聞デジタルに百舌鳥大塚山古墳から出土した鉄鏡について興味深い記載がありました。

鏡の両面に竜の図像が象眼されていることがわかったそうで、両面に象眼を施す鉄鏡はほかに確認例がないといいます。

両面ということは鏡面にも象眼のある竜の図像があるってことですよね。なんともカッコいいではありませんか。

百舌鳥大塚山古墳は、世界遺産である百舌鳥・古市古墳群にあった消滅古墳です。

西暦400年頃に作られたとみられる百舌鳥古墳群の中で5番目に大きい墳長168メートルの前方後円墳でしたが、昭和25年~27年に墳丘のほとんどが削り取られてしまいました。

 

鉄鏡といえば、やはり日田市で戦前に見つかったとされる重要文化財の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡ですよね。

三国志の英雄である曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式であり、中国本土でも稀な最高級の鏡なのだそう。

なぜ皇帝の鏡に相応しい鉄鏡が日田から出土したのかは不明とされます。

出土地もダンワラ古墳なのかしら?

この鏡、卑弥呼が魏の皇帝から下賜された鏡の1枚であるとの説もありますね。

 

また、古事記における八咫鏡が気になるところです。

古事記で八咫鏡は鉄で作られた鏡と解釈可能な書かれ方をしています。

「天の安の河の川上にある堅石と天の金山のを取ってこさせ、鍛冶人である天津麻羅を尋ね求め、石斯許理度売命に銘じて作らせた」と。

もし銅鏡のみならず、鉄鏡をも国産していたなら面白いのですが。

でも残念ながら八咫の寸法と一致する出土品、大型内行花文鏡は銅鏡です。

もちろん日田市出土の鉄鏡も百舌鳥大塚山古墳の鉄鏡も中国のものです。

日本にまだ鉄鏡が眠っているとすれば、未調査である大型前方後円墳に副葬されていることでしょう。

残念ながら生きている間には明かされない謎ですね・・・。

宮内庁に管理されている古墳はもう諦めるしかないですよね。

今城塚古墳は百舌鳥大塚山古墳のように消滅しなくて良かったです。

阿武山古墳は再調査、してくれないかなぁ~。

 

 


住吉神と猿田彦神

2021-04-16 18:15:21 | 歴史

こちら大阪では今 緊急事態でないならいつ緊急事態なんだよという状況が続いています。

今が緊急事態でないなら、これからもっと悪くなるってことですか・・。

しかし日常生活は今までと何も変わりません。家族らが時差出勤になったぐらい。これでいいの?来週には変わる?

 

さて、住吉神と同じ神だとされる神様はたくさんいらっしゃいます。

神様が同一とされるのは主に2パターンあるように思います。

各々の地で祀るA・Bの神様がいらっしゃって、そのAとBの神様のご神徳が似通っていたりお姿が似ていたとします。

Bの神様についての話を聞いた人が「ああそれなら おらがAの神様とおんなじだ」となり、ABの神様は同一とされたパターンが1つ。

もう1つがAの神様がある地の人にとっては金属神であり、別の地の人にとっては金属神である側面よりも蛇神であることが重要だったため、Aの神様を別々の名前で呼んだパターン。

住吉神が塩土老翁、事勝国勝長狭、阿曇磯良などと同神だとされることに違和感はありません。

しかし、猿田彦神と同じと言われると私には違和感があるんですよね。

 

猿田彦神は天八達之衢にてニニギを案内した神様です。みちひらきの神とされ、道祖神や岐神、佐田大神と同一説のある神様です。

鼻の長さ七咫、背の高さ七尺、眼は八咫鏡の如くと形容され、天狗とも同一とされています。

イエスキリストと同じという説も。

その猿田彦神、海で溺れて死んでいます。

住吉神と同じ神なら海で溺れて死ぬものですか??

 

猿田彦神が比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んで、水底に沈んだときの名を底度久御魂、海水に泡が立つときの名を都夫多都御魂、水面に出て泡が開くときの名を阿波佐久御魂と名付けられています。

猿田彦神は溺れ死んだことにより海神になった様子です。

オリオン座の三連星の位置を基準として船の航路・方向を決めたことから海神は三神とされます。

住吉も綿津見も宗像も三神です。

猿田彦神は死んで海神となったのなら、住吉と同神と考えてもいいのでしょうか。

海神が海で溺れ死ぬ・・・どうも違和感が残る…。

 


天照大神と卑弥呼

2021-04-13 17:56:44 | 歴史

天照大神は卑弥呼なのでしょうか。

明治時代に東大の教授であった白鳥庫吉氏が魏志倭人伝の卑弥呼に関する記事と、記紀の天照大神に関する記事内容を比較し、

「その状態の類似すること、何人も之を否認する能わざるべし」と述べています。

爾来、天照大神が卑弥呼であるという説は多くの人から支持されています。

 

天照大神=卑弥呼であることに概ねのところは肯けても、何にでも引っ掛かりを覚えるたちですからどうも気になるところが出てまいります。

「天岩屋戸事件」の箇所を読むと、天照大御神は鏡を知らないかのように書かれています。

  天岩屋に引き籠った天照大御神を引き出すために、アメノウズメがストリップをし八百万の神々が歓喜の声をあげます。

  岩屋の戸を細めに開け、私がいないのにどうして と 言う天照大御神に「あなた様よりも貴い神がいますゆえに」と答え、榊にかけた鏡を差し出します。

  鏡に映った姿をみて一歩踏み出した天照大御神をタヂカラヲが引き出す・・・

この場面です。

この場面について「鏡をしらない天照大御神」と書かれていると捉えているのは、何も私の妄想ではありません。

古事記研究の第一人者である三浦佑之氏が指摘されていることです。

氏はアマテラスは鏡そのものだといっていい神だが、そのアマテラスともあろう神が、鏡を知らないうつけ者だという笑いが、この神話をしめくくっているとおっしゃっています。

 

卑弥呼の「好物」が鏡であるならば、天照大御神は卑弥呼ではない。

そう思ってしまいます。

鏡を知らないと描かれた天照大御神。

これはつまり天照大御神は早くから鏡が入った九州地方の人ではないと書かれているのと同じことと解釈するのは、行き過ぎでしょうか。

天照大御神と卑弥呼は宗教的権威の共通性があるとも言われます。

しかし天照大御神が「鬼道で衆を惑わす」様子など、見受けられないように思うのですが・・・。

卑弥呼の宋女・台与にあたる人物を日本の資料にも確認できることも、天照大御神=卑弥呼であることの根拠としてよくあげられます。

「とよ」というのは「豊」でしょうし、豊であるならば列島内で汎用的に使われた名前であるように思うのですが・・・。

 

とはいうものの天岩屋戸事件を日食と解釈するならば天照大御神こそ卑弥呼であろうと思うし、皆既または皆既に近い日食であった北九州に天照大御神がいたのであろうと思うのです。

卑弥呼が天照大御神なのですか???