お休みの日は、朝ゆっくり起きて、ブランチ
リサイクルセンターにゴミを持って行くついでに、出品したものが売れてるかどうか確認して、父の様子を見に行く。
晩御飯を持って行くついでにコンビニスィーツをお供にコーヒーを一緒に飲んで帰る。
この夏、圧迫骨折をした時、薬の飲み過ぎで暑い部屋で朦朧とした父を見た時には、(あああ~もうダメかな・・・)と狼狽えた。
今日はバスに乗って散髪に行ったそうだ。
白髪の頭は綺麗にカットされていた。
ケアマネさんを手配して9月から行くようになったデイサービスも、最初はしり込みして、「行く」と言ってみたら「行かん」と言ってみたりで、やきもきしたが、ここの所は順調に行ってくれて安堵している。
母のご仏壇に供えたお花は鶏頭の花。
仏様の花は日持ちが良いという理由で菊が多いのかも知れないが、華やかな場所や物が好きだった母には菊の花が似合わない。
真っ赤な鶏頭も少し萎れてきたので、明日はまたお花を見繕って持って行こうと思う。
「わしが先に先に逝っとったら大変じゃったわい」
仏壇に手を合わせる私の背中から、父はそう呟いた。
父が先に逝き、母が残っていたらどうなっていただろう。最後の3ヶ月、病院のベッドで酸素マスクをつけ寝たきりになっていた。
その姿を見て子供達は皆、泣いていた。
どういういきさつがあって兄が籍を抜き音信不通になってしまったか私は知らないし、もう聞くつもりもない。
母の期待を背負ってそれに応えようと努力してきた兄。
私から見ると母の手足、或はロボットのように見えていたが、それを言うと、母からこっ酷く叱られたから、本音を言えなかった。
単身赴任で家を空けることが多かった父のいない家では母と兄がペチャクチャ、よく喋り口を挟むことも躊躇するほどだった。
母に話すことは最低限の学校の知らせぐらい。
あの時、友達が教会に誘ってくれなかったら、私はどういう人生を歩んでいたのだろうかと考えると背筋が寒くなる。
「本当にそうね・・・」
と短く答えておいた。
父もまた、私の母に対する思いは知らないだろう。
家族のありようは家族の数ほど、それぞれ。
こうして自宅を出てアパート暮らしをしていても尚、『家族』という形態に拘り続けるのは、どうしてだろう。
いつもどこか、不安を抱えながら過ごしてきた幼少から思春期。
あの頃 穴埋め出来なかった家族の幻影を確かな幸せとして現実にしたかったのかも知れない。
娘には我慢を強いた。私も毒母かな
子供達が家を楽しいと思ってくれていたら、私の使命はとりあえず果たしたことになるだろうか。