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善良と自制 ~聖書

2020年11月23日 | 日記

善良と自制

「クリスマス精神」が本当にキリスト教のものなら,善良と自制という特質によってしるしづけられるはずですが,果たしてそうでしょうか。

クリスマスの時に暴飲暴食や放縦な行為にふける人がいることを考えてください。クリスマス・パーティーが酔酒や浮かれ騒ぎの場と成り果てて,不品行や不道徳を助長することは珍しくありません。

ボストン・サンデー・グローブ紙は,特に影響を受けやすい種類の人々に関連して,その影響を的確にもこう述べています。
「アルコール中毒から立ち直った人とか一生懸命にそれと闘っている人は,この祭日に意志力を試される。支えなしにその試みを通過できる人はまずいない。その日には,酒を飲むことが当然のこととされている。
そして,世間一般が,食べて飲んで楽しもうという考え方になっていて,酒が半強制的に勧められるため,付き合いで飲む人たちでさえ,酔う(あるいは泥酔する)ことが普段より多い」。

そのように自制を失うと,健康のためにも財布のためにもならず,実のところ,危険な場合さえあります。「クリスマスの精神」が本当にキリスト教のものであるなら,そうしたことを防げないのはどうしてでしょうか。

喜び

「クリスマス精神」がキリスト教のものであるなら,喜びがその特色となっているはずですが,果たしてそうでしょうか。

I・R・ローゼンガード医学博士は,「サイエンス・ダイジェスト」誌の1977年12月号の中で次のように書いています。
「『祭日のうつ病』を経験するのはあなただけではない。それは流行病とも呼べるノイローゼの一種である……クリスマスのうつ病を避けるための医者の提案は以下の通りである」。
ローゼンガード博士は続けてこう述べています。
「祭日にはだれもが浮き浮きした気分になるわけではない。それどころか,普段よりもずっと憂うつになる人がいる。……クリスマスの時,恵まれない人々は,ほかの人たちが皆幸福そうな時にみじめな状態にあることを恥じて非常に沈んだ気持ちになる。……クリスマスになっても決して楽しい気分になれないことに内心がっかりしている人は……少なくない」。

このことからすれば,ドイツの一宗教雑誌の中で,ある医学および哲学博士が「クリスマス・イブに自殺が激増する」と述べたのも不思議ではありません。
「クリスマス精神」が本当にキリスト教のものであるなら,クリスマスの時人々が真に楽しい気分になれないことが多いのはどうしてでしょうか。

平和と辛抱強さと柔和

「クリスマス精神」が本当にキリスト教のものであるなら,平和・辛抱強さ・柔和がその特色となるはずですが,果たしてそうでしょうか。

言うまでもなく,クリスマスになると「地に平和,人々には善意」という言葉が盛んに口にされます。しかし,実際には,一年のその季節にいざこざや家庭での言い争いがあちこちで起きます。
サンデー・オレゴニアン紙によれば,クリスマスの前になると「親や親族の間柄が険悪化してけんかになることがあり,クリスマス・イブは警察官にとって一年中でも多忙を極める夜になる」ということです。
ある副保安官はその点について,「親族が一同に会して酒を飲むと,過去の問題が話題になる。一度収まった,そして収まったままにしておくべきけんかを再び蒸し返す」と語っています。
また,オレゴニアン紙は収入の低い家庭で起きる事柄についてこう述べています。「クリスマスを盛大にして子供たちを喜ばせることが圧力となって,一層いらいらしたり気短になったりする。
夫婦がつかみ合いのけんかをして,贈り物の包みを投げ合うため,修羅場と化した部屋にクリスマス・ツリーが立っているという有様になって,家庭でのクリスマスが台無しになることもある」。

地球全体の平和については,しばしば,1914年のクリスマス・イブのことが感傷的に語られます。その晩,英国軍の歩しょうは,90㍍ほど離れたドイツ軍のざんごうから「きよしこの夜」の歌声が流れてくるのを聞きました。

英国軍は「もろびとこぞりて」と歌い返しました。それから両軍はざんごうを出て,ほんの二,三時間一緒にクリスマス・キャロルをうたいました。
しかし,そのあとすぐ,再び殺し合いを始めました。それが,みな,いわゆる“クリスチャン”なのです。
この出来事は本当に平和に満ちた「クリスマス精神」の表われですか。ぞっとするような極端な例であるとはいえ,それは偽善の精神をまざまざと表わしているのではないでしょうか。


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