「では、今日の予定ですが、これから砂尻さんは別室でドラムの講師が付きます。ギターのお2人はここで私が担当します。今日の練習曲としまして、『レットイットビー』をそれぞれ練習して、最後に合わせて演奏したいと思います。よろしいですか」
講師が言うと、3人の老人は今日初めて満面の笑顔になった。
「じゃ、砂尻さんはいったん出ていただいて、部屋を移動になります」
「俺だけ別室か」
講師に促され、シュウジが少し嬉しそうに緊張しながら立ち上がって言った。
「そりゃ、そうさ。すし屋だって、ネタとシャリの仕込みは別だからな」
当然のようにツッタカが応えた。浮きたつ3人を横目に、講師は奥からギターを1本持って来た。
「じゃ、僕は砂尻さんを案内してきますから。中島さんは、今日はこれをお使いください。戻ったらアンプを用意しますので、お2人で準備していてくださいね」
ギターと小さな機械をナカジに手渡して、講師はシュウジを連れて部屋から出て行った。
ナカジは小さな機械を左手に持ち、右手に握ったギターをしみじみと眺めた。見た目に反してみっしりと重い。
ストラトタイプで、周囲は黒をぼかした木調、中央は焦げ茶色のボディで、金属の部品が整然と配置され、滑らかな曲線との対比も男心をくすぐる。ヘッドのロゴも洒落てるし、ところどころに残る使い込まれた跡まで格好よかった。
「やっぱ、イカしてるな。ところでこれは何だ」
ナカジが渡された機械をツッタカに見せて訊いた。
「ああ、えー、それ、今使うんだ。指に挟むんだよ。血液の酸素と脈を測るヤツだわ。病院に行くといつもやらされるけど、やっぱ俺たちのこと、相当の年寄りだと思ってんだな」
ツッタカが自分のギターに手を伸ばしながらちらりと見て言った。
「酸素と脈?」
ナカジが驚いて聞き返す。
「簡単だよ、表側が爪にくるようにして挟めばいいんだ」
ギターをケースから出しながらツッタカが答えた。黒のレスポールタイプだ。
「こうか? 結構痛いな」
ハイパーテンションズなんて名乗るから、いきなりハイテンションで暴れ出す変な老人とでも思われてるのだろうか。怪訝に思いながらも、言われた通り、機械のクリップを左手中指に挟んだ。
「そうそう、そのうち数字が出て来るんだ」
ツッタカの言葉に、ふうんと、手をかざして機械を見るが、酸素と脈どころか、何の変化もない。
「これ、何にもでないけど、スイッチとか入れないの?」
「さあ、看護師はいつも適当に挟んでるだけだけどな」
ツッタカは弦を数回弾くと、ケースのポケットからピックを取り出してヘッドの弦に挟んだ。
「真っ黒で渋いな。結構、使い込んでんじゃん。これとはまた違うんだな」
ナカジがツッタカのギターと借りたギターとを見比べながら言った。型名は憶えていないけど、ブックオフで買った本にも同じタイプの写真が載っていた。
「何でお前はやらないの?」。
「俺は別に、いつも病院でやってるから、自分の数値はだいたい知ってるさ」
ツッタカは左手にギターを持ち、空いた手でソフトケースを荷物入れの籠に押し込んだ。
「お待たせしました。え?」
戻ってきた講師がナカジの指を二度見して思わず声を出した。
「中島さん、これ、チューナーですよ。指じゃなくてここに挟むんです」
講師は慌ててヘッドの先につけなおしてツッタカを見た。
ツッタカは当然知ってると思ったから説明を省いたのだが、当のツッタカは自分のギターを抱えて悠然と頷いている。ナカジの指先は紫色に変色し、クリップの痕が痛々しく深い。ナカジが文句の眼差しを向けたが、ツッタカは気づいてもいない。
「津田さんはチューニングは大丈夫ですか?」
「ああ、自分はいつも耳でやってるんで。今は便利なもんが出てるんだね」
当然、とばかりに返されればそれを信じるしかなく、ナカジに向き直って、チューニングしながら使い方を説明していった。
ナカジは目を丸くして講師の話に聞き入っている。簡単な操作で張り具合が表示され、それを見ながら調整できるのだ。音を聞き分けることなく調弦できるなんて! 遠い昔、吉井の兄貴に教わったときは手も足も出なくて途方にくれたが、なんて便利な時代になっていたんだ。
「じゃあ、改めて始めましょう。初めに各部の名前と役割から説明しますね……」
講師はギターを前に掲げ、ナカジに合わせた入門者向けの説明を始めた。
これまで何回も繰り返してきた文言だったが、前のめりで一つひとつ感心しているナカジの姿勢に、講師は好感を高めた。
さらに、的確で大きな相槌から━━最初の印象からの反動もあって━━高い理解力を感じ取り、さらに広く、より深い内容へと言及していった。
「……で、これがピックアップといって、弦の振動を電気に変えてアンプに伝える装置で、いわばギターの心臓部です。
磁石にコイルが巻いてあるのですが、それが1つだとシングルコイル、2つだとハムバッキングと言いまして……」
開始から15分が経過しても講師の熱弁は止まらない。
ナカジが実際に理解できたのは極々始めのいくつかの名称だけで、初めて憶えたそれらの言葉を必死に握り続けていたため、以降は何もつかめず、ただただ聞き流すしかなかった。
そもそも、聞きなれない横文字が多すぎた。知らないことを習うのに、説明の言葉が分からないのだから始まらない。
ナカジは長年の営業で身体に染み込んだ習い性で姿勢を維持するが、同じ昭和のジジイでもツッタカは開始早々に魂が抜け出て、目は開いているものの焦点が合っていない有様だった。
腕と脚をがっちり組んでいるので体は微動だにしない。ナカジが少し強く肩を突いたら、ピクリと動いて目の焦点を合わせ、微妙な間を置いて「わかってるよ」と低く答えた。
「では、実際に少し弾いて見ましょうか」
十分に話し終えてやっと2人の異変に気付いた講師がようやく実践に切替えた。それぞれのギターをアンプに繋ぎ、ピックを2人に手渡した。
「ピックは今日の記念にお持ち帰りくださいね」
笑顔で講師が言い添えると2人の老人に血の気が戻り、笑顔で頷いた。いよいよだと、気合も入る。
それでは、と講師が見本にとばかりにギターを鳴らした。♪ジャカジャーン……。
『20センチュリー・ボーイ』の出だしの一節がスタジオに響いた。
「おおおー」
ナカジとツッタカは感嘆の声をもらした。曲名も誰のかも知らないけど、聞いたことのあるその低く短いメロディーは、強い意志の塊となって2人の身体を駆け巡った。俺たちのバンド開始の布告だ。カッケ―!。
感動して立ち尽くす老人の姿に、講師は満足げに胸を張った。
「では、ギターを構えてください。ピックをこう持って…… その尖った先で、弦を押さえないで、右手だけで上から下に6本の弦を軽く弾いてみましょう」
2人は言われた通り弦をかき鳴らした。ジャカ、ジャカ、ジャカ…… 音楽のようで音楽でない機械音が響く。
「今度は上から1本ずつそれぞれ3回、弾いてみましょう、」
ナカジは肩と肘を強張らせ、ピックを持った指先に神経を集中させた。ビェン、ビェェン、ブェン…… 不規則で眠たげな音が2台のアンプからそれぞれ響いた。